明日、死ぬかもしれないということ

 時折、現世への、またこの生への興味がさっと引いてゆき、何をする気も起こらなくなることがある。

 こういう気分はたまにやってくる。ある時はこれが鬱というやつかと思ったこともあるが、そういうものとはどうも違うらしい。気がふさぐわけではない。ただただこの生における意欲や情熱が急速に醒めるのだ。

 人間関係や現在取組んでいる事柄などに対する意味の感覚のようなものも失せてゆく。この期間、わたしの生活はいつにも増して無気力に、自堕落になり、なんの痕跡も残さずに消えてしまいたいという気になってくる。日常生活をおくるうえで、これはいかにも困ったことである。

 だが、ここまでの心理経路をたどって、わたしは、最近の自分が明日も生きていると前提して生活していたことに気づく。すると途端に、このように空虚な気持ちになること自体バカらしくなってくる。明日にもわたしは死ぬかもしれないのだ。

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 わたし(たち)は、一応、明日以降も生きているという想定のもと、そのためにきょうはこれをしようあれをしようと様々の仕事をする。南国のように、そこらぢゅうに椰子の実やバナナが生っていれば、先々のことにまで思いを巡らす面倒をあえてする必要もないのだろうが、日本列島という環境に暮らす農耕民族は、程度の差こそあれ、否が応でもそうした面倒を避けえない。

 だが、あしたも生きているという想定は想定にすぎない。あしたの想定に身を委ねきってしまっては、肝心のきょうを十全に生きることができなくなる。それは、〈あした〉を生きることによる〈きょう〉の抹殺に他ならない。だから、想定は想定としても、あしたのためにきょうする事は、少なければ少ないほどよい。いくら明日も生きていると信じていたところで、明日死ぬ可能性というのはつねにありつづけるのだし、きょうを生きないまま翌日ほんとうに死んでしまっては何をしているのかわかったものではない。

 また、あしたの想定が嵩じれば、どこかに到達しようという観念も出てくる(人生の目標とか)。しかし、実際にわれわれはそれほど〈遠く〉へは行けないだろう。いや、ほんとうには、どこにも行けはしないのだろう。

 たとえば、脇目もふらぬ努力を積み重ねたすえにどこかに「到達した」と思ったとしよう。だがそこに、そのためにきょうを抹殺しつづけたことを正当化する心理作用は働いていないと言い切ることができるだろうか。彼があしたに向かって、急ぎ足で素通りしてきたきょうの道々には、花が咲い鳥がさえずり、上空には星が瞬いてもいたのである(彼の努力やその結果は、それはそれとして意味があるとしても)。

 

 大事なのは、明日も生きているだろうとはほどほどに思いながら、毎日できるだけ多くの時間を、きょうを生きることに費やすことだ。それが——それこそが!——まさしく「生きている」ということなのであり、まだ生きている者の最上の贅沢なのであるから。

 

 そんなわけで、明日のために早く寝ることはよして、これからわたしは散歩でもしてくる。今夜も星がきれいだ。

ステキな行方不明

 行方不明!

 なんと甘美な響きだろう。ニュースなどでこの一語を見聞きするたびに、僕はつねづねそう思ってきた。

 われわれは生きているかぎり、日々履歴を積み上げてしまう。それは人を支えもするが、制約しもする。僕にはそれが煩わしくなって、世間からも、自分自身からさえも、行方不明になりたいと思うことがある。

 

 先日、『アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)』という小説を読んだ。地方都市の醸す閉塞感や、そこに住む若者たちのありがちな焦燥や足掻きを如実に描きながら、いろいろあったけど全部ぶった切って、たくましく朗らかに生きていこうする「女の子」たちの描写で終わる、軽くて、ほろ苦くて、最後はなんとなく爽やかな気分になれる話だった。

 たしかに、「女の子」たちへの、なかば強引な、とってつけたような肩入れで幕が切れるので、「え、『男』たちは…?」と、それまでつぶさに描写されてきたはずの男たちの、あっさりと順当なところに回収されてしまう結末への腑に落ちないかんじが際立つけれども、とまれ、男たちはこれくらいの扱いでいいのかもな、とも思う。

 それはそれとして、この物語では、「行方不明」ということが喚起するもう一つの、ネガティヴでない面——つまり、履歴をリセットして生まれ変わる、あるいは人生を生きなおしてゆくというような、爽やかな方向性が掬いあげられている。それはまったく痛快なものだ。

 わたしの「行方不明」への衝動も、こうした、「ムカつく現実」からの脱出や、窮屈さからの解放といったものを目がけている。

 

 関連して、茨木のり子の詩に『行方不明の時間』というのがある——

人間には行方不明の時間が必要です
なぜかわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです
三十分であれ 一時間であれ
ボワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ

遠野物語の寒戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
直ちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
<すぐに戻れ>や<今 どこ?>に
答えるために

遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり、圏外であったりすれば
絶望は更に深まるだろう
シャツ一枚打ち振るよりも
私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです

目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
不気味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸い込まれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
さすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ

 まったくもってこの詩には、「行方不明」についての諸々がもれなく詰まっている(この人の詩はどれも言い過ぎるきらいがある)。

 いかにも、わたしにはすべてを「チャラ」にしたいときがあるのである。いわゆる「黒歴史」をふくめ、楽しかった思い出や築いてきたもの(そんなものがあったとしてだが)すら、履歴全部を、なくしてしまいたい。

 なぜなら、履歴というものは、それが世間に記録されるものにせよ、自分に記憶されるものにせよ、あまりにも重いから。その内訳ひとつひとつの種類はさほど問題ではない。

 履歴とは、僕にとって足枷のイメージだ。最初のうちこそそれは、地上で暮らすための適度な重りになるが、年月の経過とともにだんだん動くのに不都合がでてくる。そうして次第に、走ることも飛ぶこともできなくなる。

 だから時折、誰も自分を知らない遠くの土地へ行って、そこで記憶喪失になれたらいいのに、と思う。だが、たとえそうなったとしても、僕がこのカラダという枠を持ちつづける以上、ふたたび僕は「僕」個人として重たくなっていってしまう。カラダというのは重すぎる。

 したがって、僕の望みの最果ては、はじめから一個体として存在などしなかったかのように、〈全体〉にあまねく溶けることだ。どこにもいないしどこにでもいる、誰でもないし誰でもある、軽快な、透明な、宇宙を満たしているというエーテルのようなものになりたい。

 

 もっとも、以上のことは、ふとたまに僕に訪れる小さな波のような考えにすぎない。

 目下、基本的に僕は、日に日に増すカラダの重さを楽しみたいと思っている。高く積み上げたものほど、壊すときにスカッとするだろうし。

 

アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)

アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)

 

 

倚りかからず (ちくま文庫)

倚りかからず (ちくま文庫)

 

 

日記 七月廿四日(平成廿八年)

 晴れ、ときどき曇り。

 ✳︎

 6時半起床。最寄りのコンビニで買ったコーヒーを飲みながら『南の島のティオ』(池澤夏樹著)を読みすすめる。8時から、野菜の世話、田んぼの草取り、米ぬか撒き。11時、一旦帰宅し昼食、読書。12時半、再び田んぼの草取り、等々。14時、木陰で読書しながら昼寝。15時作業再開。18時半帰宅。

f:id:shhazm:20160724221509j:image(でかいゲンゴロウと思いきやガムシ)

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 ここ数日、なぜか野良仕事に身が入らない。惰性で、なんとか差し迫っている作業はこなしているものの、意欲や集中力を欠いているのが自分でもわかる。

 実際、休憩が多くなったし、気を紛らせるために別々の作業を少しずつ進めている。本(近ごろは専ら池澤夏樹の小説)を読む時間も多くなった。

 生活に何かが不足している。あるいは超過している。そんな気がするのだが、何がかはわからない。こういう時は下手に動きすぎてはいけないと思うので、何事もぼちぼちやることにする。

日記 七月十七、十八日(平成廿八年)

f:id:shhazm:20160719071638j:imageゴマダラカミキリ

 

十七日

 曇りときどき雨

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 午前、野菜の世話、水田の草取り。午後、友人が来てくれたので鶏小屋の建設作業。

 

十八日

 終日晴れ

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 午前、陸田の草刈り(手鎌)。午後、もう一つの畠の世話、畦草刈り(刈払い機)。

 

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 田植えが終わってやれやれと思っていたのも束の間、不耕起の田んぼには早くも草が茂ってきている。稲の近くのものは抜き、遠くのものは刈る。そこへみて、前に刈った畦草を集めてきて敷きつめる。それと同時に米ぬかを撒布する。

 梅雨が明けてこれから夏本番となれば、高温を好む稲はぐんぐん成長してゆくはずで、そうなれば手間も省けてくるだろう。それまでもうしばらくは、手取り足取り世話をしてやらなければならない。

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 今年の梅雨は梅雨らしい梅雨で、雨が多かったように思う。そのせいか草が伸びるのも早い気がする。すこし草刈りが遅れると、足を踏み入れるのに一瞬躊躇するほどである。なにかこう、生命力(生命体としての力量や度胸、等々)を試されるかんじがある。

 人間にとって心地よい空間としての里山は、そこに生えている草が、大きすぎたり多すぎたりしても、小さすぎたり少なすぎたりしてもダメらしい。人間と草双方の均衡を保つこと。

日記 七月十四日(平成廿八年)

 未明に雨、のち曇り時々晴れ、夕方に小雨。

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 早朝、田んぼの巡回と野菜の世話をひとしきり。その後昼まで棚田の草刈り。一旦帰宅、昼飯。きょうはさほど暑くなく、シャワーも昼寝もなし。昼からも日没まで棚田の草刈り。

f:id:shhazm:20160714205538j:image(雲が多かった)

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 きょうは一日中棚田の草刈りをした。予定は決めずに行って、なんとなく草刈りの日だなと思い立ちやりだすと、全部やったれという気になってきて一番下から一番上まで大方刈った(それだけほったらかしにしていたということ)。

 炎天下でやると死にそうになるが、きょうは雲が多く、日が射したかとおもえば曇る天気で、絶好の草刈り日和だった。一日中刈払い機を振りまわしても苦にならず、溜まっていた分をだいぶ消化できた。

 もっとも、一度に草を刈りすぎるのは、生態系上、また作物の栽培上でもよろしくはないのだろうが、畝にも草がボーボーに生えているので、まあいけると思われる。

f:id:shhazm:20160714211318j:image(畦と法はきれいになった)

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 昼に一旦帰ってきたときに、ちょうどアマゾンからの荷物が届いた。中身はこれ——

龍宝丸 現場で一発ダイヤモンド研磨機 1056

龍宝丸 現場で一発ダイヤモンド研磨機 1056

 

 さっそく現場で試してみた。チップソーがちょっと切れにくくなってきたなという時に、その場に設置して5秒間刃をあてるだけで、切れ味がある程度恢復する。これはなかなかいい。

日記 七月十二日(平成廿八年)

 曇り、時々雨、のち晴れ。

 9時頃から雨との予報が昨晩から出ていたので、それまで草刈りをしようと思っていたら、夜更かしが祟って寝坊、8時前に起床。意気くじけて、森下さんを迎えにいくまでのあいだ、コンビニのコーヒーをすすりながら書きかけの文章を進めることにする。10時前、森下さんをのせて森下邸に到着。そのまま畠で野菜の世話。雨は降ったり止んだり。昼すぎ、あしたから定期入院される森下さんの希望で、向かいのカフェにお連れして昼食。送り届けて再び野菜の世話、田んぼの巡回。じょじょに晴れてくる。18時すぎ、移動し、頼まれているところの草刈り。日没少し前に帰宅。

f:id:shhazm:20160712213039j:image(だいぶ大きくなってきた、カマキリもエダマメも。)

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 きょうみたいな、雨が降ったりやんだりという天気が一番やりにくい。しっかり降ってくれればあきらめがつくが、中途半端に降っては止み、止んでは降りというのでは、こちらも出方を決めかねる。休んではかえって落ちつかないし、野に出たら出たで仕事がしづらいから。

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 最近、毎日のように刈払い機を振りまわしている気がする。この時期は、高温と降雨で草たちの勢いが物凄く、刈ったシリからまた生えてくる。くわえて、いろんな人から頼まれている分もあるので、一巡するのにもけっこうかかる。今週中にはひと通り終わらせて、早く鶏小屋を建てねばならない。

日記 七月十日(平成廿八年)

 概ね晴れ。

 6時、森下さんの村の草刈りと溝の泥上げ(この辺ではこういうのを「出合い」と呼ぶ)に代理で出る。10時頃に解散後、田んぼの見まわり、つづいて昼すぎまで今季最後(今度こそ!)の黒豆を播種(もうやめとこうと思っていたのだが、種と畝が余っていたので思いたってやった)。帰宅、シャワー、ビール、昼飯、昼寝。15時半頃から、もう一つの畠の世話。17時半から約一時間、頼まれていたところの草刈り。田んぼの見まわり。日没、帰宅。

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 きょうは疲れた。寝る。