味噌を仕込んで
立春に入ったきょう、はじめて自分で作った大豆で味噌を仕込んだ*1。
大豆栽培・味噌作りは、わたしにとって米作りに次ぐ重大事である。
これら二つは、自給生活における「食」カテゴリーの仕事の最優先事項であるばかりでなく、下位を大きく引き離している。なぜなら、米と味噌さえあればとりあえず生存できるであろうからだ*2。
その意味で、他の食材はほとんど嗜好品と見なしてもよい。生活の自給には、包括的な仕事と平衡感覚が要求される。文化的枠組みのなかで、まずは生存の条件を充たすための幾つかの仕事を優先すべきであり、それらに傾けるべき時間と労力を、あってもなくてもよい物のための仕事や何か一つの仕事のみに使いきってしまってはならないのである。
われわれの多くが、一日の大半、週の大半を囚われの身でありつづけるのは、こうした包括的な仕事や平衡感覚に欠けるためだ。
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大豆を栽培し、その大豆で味噌を仕込むところまで来たことは――味噌ができあがるまでには今しばらく期間を要するものの――、領土の奪還に似た感覚をわたしに与える。ある一つの重要な部分が、きょうわたしに復帰したのだ。
例によってこの味噌も「無政府味噌」と呼称したい。
若さの安売りについて
起きているあいだは、意識しないときでさえ、俺はずっとイライラしている。それが長く続いているせいで、アイデンティティの基調にすらなっているほどだ。
同世代への苛立ちがその最たるものである。以下はだいぶ前に書いた文章だが、さっき読み返してみて現在の心境と寸分たがわないことに幾分動揺しさえした。状況は毛ほども変わっていない。
今日では皆、若さを安売りすることに慣れすぎている。若人がなぜ、世間一般に受けのいいことばかりに日夜かまけているのか。信じがたいことだ。
僕らの世代の美徳あるいは悪徳は、受け入れられようとすることだ。僕らの多くが、世人の理解の内側でしか考えようとしない。当然のように評価を前提に行動する。しかし、受け入れられてはならないのだ。世人を驚かすこと、若さとは、そういうものではなかったか。
今日では、まことに遺憾ながら、実際より歳をとった若者が多い。社会は、僕らの若さを吸い上げ、燃料にして動いているようだ。僕らのほうでも、それに家畜よろしくヘコヘコ従い、なされるがままというわけだ。まさに意気衰えた年寄り、犬のような暮らし。
おそらく僕らは、早く認めてもらおうと思いすぎている。いきおい、そこには、今生きている人による評価が念頭にある。しかし僕としては、今生きている人よりも、むしろ過去や未来の人に向けて生きたい。
ここで、僕は言わねばならない。お行儀のいい者たちが何か価値あるものをつくった試しがあったか。否、断じて否。
自分の穏和さ加減に俺はつねづねがっかりしているというのに、ほかのヤツらときたら俺よりひどい有り様だ。
なにやってんねん殺すぞボケ
「無政府米」栽培宣言
権威には楯突かねばならない。
どんなものであれ、あらゆる権威は悪である*1。権威を揮うことや持とうとすることはいうまでもなく、権威に擦り寄ることも、権威に屈することさえも、おしなべて悪である。
人の上に立つことも、人の下に立つことも、まったくもって馬鹿げている。われわれが立つべきは土の上だけだ。「ひとりきり*2」で土の上に立ちつづけるしかないのだ。
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生存に何より必要であるところの食糧を自給しないことが、支配や隷従のはじまりである。であれば、食糧を自給することは、自立の最初の条件であるはずである。
去年、わたしははじめて自分の手足で米を作ってみた。収量は大したものではなかったものの、主食を作るというその営みのなかに自由自立のたしかな予感を味わった。
今年は、最低でも自分の食べる一年分を作る計画だ。そこで、その米を「無政府米*3」と呼ぶことにした。
わたしは、米(主食)を自給することが、権威(を生じさせる状況)への最も強力な対抗措置だと確信している。
人の上にも下にも立たないために、今年、米の完全自給をめざす。
自給行為にまつわる骨抜き問題について
きのう、鶏舎の柵の扉が完成した。その野趣に富むデザインはわれながら見事だと思っている。
そこでドヤ顔でfacebookに投稿した。
しかし、この投稿の、以前の綿花についての投稿よりも反響がすくなかったことは、ある種の「ズレ」をわたしに感じさせる。
たしかに、実利的な視座からのみ見るならば、綿花を自給することの実生活上の意義や可能性のほうに軍配はあがる。が、わたし自身の原理を曲解されるおそれなく能くあらわしているのはこの扉のほうだという認識があり、しかもそれを予想以上にうまく表現できたという自負もあっただけに、やや釈然としない気持ちになるのだ*1。
現在、綿花にかぎらずとも、自給するというとどこか先進的な行為と目される空気がある。それが嵩じて一種のオシャレでイケてるライフスタイル(DIY!)に祀りあげられるにおよんで、その行為が骨抜きにされ、上澄みのイメージが拡散されているきらいさえある。そうなると、自給の現場に色濃くあるはずの肝心の土の匂いが薄められることにもなり、結局はかえって土から一番遠いところに回収されてしまうのではないかと危ぶまずにはいられない。
わたしとしては、自給行為をイメージ的な「流行」へ飛翔させるのではなく、実質的な「文化」へ軟着陸させたいのである。そのためには価値観の変換を要すると思っている。つまり、土の匂いのしない表層的で優雅で洗練されたものよりも、土の匂いのする「全層的」で粗野さすら感じさせるものにこそ価値を見出すべきではないか、ということなのだ。
そんなわけで、今回の反応のちがいには少々落胆するところがあった。このまま何も言わずに終わるのは癪なのでここに書いておく。
耕さない農耕
わたしが畠をするのは、農業の道を極めたいからではない。はたまた、自身の健康や食の安全を目がけているのでもない。まして商売のためでは全然ない。
わたしは、生活をある程度自給したいと思っている。そしてその先で、人間の生身と風土の側から文化を建てかえすことに照準している。わたしが畠をするのは、とりもなおさず農耕という行為が、生活の、ひいては文化の基礎であるからに他ならない。
わたしは、農耕の仕様がそのまま、その文化の基本的な世界観を反映すると考えている。わけても耕すか耕さないかというところに、その集団の性質を透かし見ることができる、と。
ふつう(日本では)土を耕すことは、農耕の最も基本的な行為だと思われている。だが実際には、耕さずとも作物はまずまずできるのである(もちろんその土が栽培に適していることが前提)。現にわたしは、畠を耕さずに種をまいて、様々の野菜を収穫している。
たしかに、耕したほうが収量は上がるだろう。だが耕した土は、その後植えつけのたびに耕さねばならなくなる。なぜなら耕すことは、多くの生物——とりわけ野生植物の生きてきた舞台を破壊する行為であるからだ。耕して一時的に柔らかくなった土も、そこに多くの生物が息づいていなければ、じきに固く締まってゆく。
つまり土を耕すとは、その土地を人間が占有することなのだ。人間にとって有用な植物の生産性を上げるために、多種多様の生物を斥け、彼らの暮らしてきた履歴を消し、純粋な土を取りだそうとする行為だと言ってよい。
その意味で、自然とは自分たちが応じるものではなく、自分たちの都合で「作り変える」ものという世界観は、はるか昔土を耕すことを選択した時点の生活から現代文明まで、連続していると考えられる。このことは、cultureの語源が「耕す」である事実が裏付けている。われわれの文化は、まさに「土を耕す」ことなのである。
だが、耕さない農耕を営む今のわたしは、「土を耕さない」という別様の文化の気配を、遠くない未来のほうから感じている。
わたしの行う不耕起栽培は、川口由一さんの「自然農」を下敷きにしているのだが、彼はどこかで、「農耕の歴史の初期に、耕さずに種をまくだけという期間があったはずだ」というようなことを言っていた。まちがいないだろう。その期間は短かったかもしれないが、たしかにあったはずである。
しかし、その「耕さない農耕」が続けられることはなかった。なぜなら、その時期の耕さない農耕は、あくまで「耕す農耕」に至る一段階でしかなかったであろうからだ。より安定的でより効率よくより多くの生産をめざす過程で、一時的に試みられた方法にすぎない。
ということは、かつて過程でしかなく、しかもその目的によく適う方法ではなかった「耕さない農耕」を、現代のわたしは積極的に選びとってやっていることになる。そのことが示すのは、世界観の変容という事態だ。
もっとも、耕しはしないものの、農耕(栽培)である以上、主な目的は作物の生産である。が、「より多くの生産」をめざしているのではない。さらには、その目的は目的としても、わたしの農耕はそれのみに収斂しない。
そもそもわたしにとって畠とは、作物を生産する場所であると同時に、多くの生物の存在に触れるもっとも身近な場所である。だから、作物以外の多くの生物を排除してまで、より多くの作物を作ろうとは思わない。
作物を栽培することは、それ自体大きな悦びであるが、多くの生物の存在を身辺に感じることもまた、それに勝るとも劣らない悦びである。さらにいえば、彼らと場所を同じくして自分の食料を作ることは、無上の悦びであって、しかも多大なる安息をもたらす。
大地を〈耕す/耕さない〉は、文化の基底における〈する(人為を働かせる、統御する)/しない(人為を制限する、統御しない)〉の象徴的な一例であるが、「しない」ことは、そのイメージに反して実は積極的な意味を持つのではないか。
われわれの文化は、もちろんわれわれを中心としているし、これからもそうありつづける。そのことに何も異論はない。ただわたしが気にかけるのは、その狭さである。
われわれの文化の粋は、都市であろう。人間と人間とのあいだの関わり(フェロモン!)を発展純化したすえに都市はできた。が、同時に、人間とそれ以外の生物とのあいだの関わり(アレロケミカル!)は、都市が発達すればするほど、ますます等閑されてきた。このことは、われわれが「する」ことばかりをしてきた結果である。
ここでわたしはその問題点をあげつらうつもりはない。その成果をわたしは十分に理解しているし、十分にその恩恵にあずかってもいる。しかしながら、われわれの豊かな文化が、他ならぬ「文化」であるためにのがしてきた、もうひとつの豊かな世界(自然!)のことを想わずにはいられないのだ。
わたしはあくまで貪欲である。並び立つ二つの豊かさを前にして、どちらか一方だけを取る気はさらさらない。
だから、こうして里山の残る地域に移住してきた。畠をしているが、土地を耕さない。すなわち、「しない」ことをしている。大地の上で、わたしが「しない」ことで、多くの生物たちが様々に「する」。その光景は見事と言う他ない。
そして、耕さないといっても、農耕自体は「する」ことである。したがって、「耕さない農耕」とは、〈する/しない〉の中間にあることになる。その営みは、わたしを多くの他の生物たちと同じ場所に生かしてくれる。
この地平に、ほんとうの意味において新たな文化の芽が萌すとわたしは信じているのである。
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つまるところ、原理的に言って、「耕さない農耕」は新たな形態の文化を醸成するはずなのだ。
それは、広々とし豊かなものであるに違いない。その獲得をめざしてわたしは日夜進んでいるのであり、そこまで到達できないことは目に見えているにしても、それを手にできたときのよろこびを少しでも算定すれば、自分の寿命のことなど気にしてはおれないのである。
参照
鶏舎建設まとめ
先日、ようやく鶏小屋が完成した。
おもえば、三月末に建てはじめてから五ヶ月もかかった。といっても、梅の咲きのこる時分に柱だけ立てて、それから七月末までは完全に放置していた。すぐに農繁期に入り、構っていられなかったのである。柱を立てれば、忙しいなかでも建ててゆく気になるかと思ってやったのだが、気分も乗ってこなかった。
それが、七月、田畠の仕事も落ちついてきて(正直、すこし飽きてもきて)、鶏小屋を建てるなら今だと一気に取りかかった。この機を逃せば、すぐまた冬野菜の種まき時期が来る。それまでに建ててしまおうと。
だからつまり、実質は七月末からひと月で建てたことになる。何事においてもそうだが、わたしは気が乗りさえすれば、集中してその事に取組むことができる。裏を返せばそれは、着実に少しずつ積み上げるということができない、ということにもなるわけだが。
ともあれ、鶏小屋はできた。もっとも、鶏を飼うまでには、内装(!)や柵の設置などすべき事はまだあるわけだが、一段落は一段落なので、これまでの建設作業をふりかえってみたい。
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三月はじめ、友人と建設予定地にあった梅の木を掘り上げ、別の場所に移す。
三月末、友人が数人来てくれたので、間伐したヒノキのなかから手頃なものを選んできて、柱として立てる。ちなみに、鶏小屋を建てさせてもらっている場所は、わたしがいつもお世話になっている森下さんの敷地内。柱の丸太も、写真左上のヒノキ林からもらった。
以後、七月末までこの状態で放置。
五月には、知り合いから名古屋コーチンの雛が一羽届く。最初のほうこそ順調に見えたが、生まれつき脚が曲がっており、大きくなるにつれ自重を支えきれなくなって弱り、七月には死んでしまった。つまり、鶏小屋はできたものの、実はまだ肝心の鶏がいない。雛をくれた知り合いのところでもオスが高齢のために有精卵ができないらしく、十月まで待ってみてネット等で購入するつもりだ。
七月末、またも友人に手伝いにきてもらい、ようやく屋根に取りかかる。昨秋に切っておいた竹を山からおろし、半分に割って上下互い違いにし、波板状に設置する。この案は、いつぞやネットで見かけたバンブーハウスのものから拝借した。
屋根に取りかかったはいいものの、切っておいた分だけでは足りず、あらたに切ってくる羽目になる(秋冬以外に切った竹は傷みやすいが、仕方がない)。しかし、予想以上に本数が要ることと、切ったばかりの青竹は重く、大量に運んでくるのが自分一人では大変なこととで、半分ほどまでは一人でして、あとの分は誰かに手伝ってもらって切ってくることにする(ここらへんで件の棚田全段流し素麺を思いつく)。
八月あたま、一人でできるところをしていこうと、南側の壁を張る。南側は窓を作らないので、単純に板の長さを合わせて張ってゆくだけ。ちなみに壁板は、バイト先(材木屋)からもらったスギ板(バイト先が材木屋でよかった)。
ここまでくれば調子も出てくる。日をおかず、東側に取りかかる。東側は一番目立つし、窓や出入り口を作るので、いろいろと思案しながらの作業になる。壁は鎧張りにし、見場を良くした。
そのままの勢いで、東側の壁、窓、扉を作る。扉は、これまた森下さんの納屋に眠っていた昔の建具をもらい、流用している。ここまでやって、扉の上のスペースに看板があればいいと思い、字の上手な森下さんにお願いしてみる。
看板を頼んだ翌日、とんでもない代物が森下さんから返ってくる。ただのヒノキの白い板をお渡ししたところ、まずバーナーで表面を焼き、サンダーで磨いてから、字をしたためてくださって、ものすごい仕上がりのものになっていた。
その後、看板に圧倒されて作業はやや失速するも、盆の頃には壁が全面完成する。もうこの段階にくると、だいぶ作業にも慣れて、同時にすこし飽きてくる。
八月十五日、いよいよ棚田全段流し素麺の日。目論見どおり、大量の竹を皆で切ってくることができた。鶏小屋の屋根に流用するにはいささか多すぎたのではあるが。
流し素麺で使った竹で屋根を全部葺く。その上に太い鉄の棒(これも森下邸にあったもの)を渡して強風で飛ばないようにする。
最後に、鶏小屋には最も不要な(もったいない)部分であるところの、廂を作る。ヒノキの角材で骨を組んで竹を葺く。正直にいって、この工程に一番時間をかけたし、苦労した。
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かくて鶏小屋は完成した。
(正面からはあまり見ないほうがいい)
間近でつぶさに見てゆけば粗い部分も多いのだが、「鶏小屋にしては」十分すぎる出来だと自負している。
こういう本格的な小屋を建てるのは初めてだったものの、やってみれば案外できるものである。要は柱を立てて屋根と壁を取付ければできるのだ。生きるか死ぬかの局面に臨んだ際、人は先入観に反して恐怖をおぼえない(サン・テグジュペリが書いていた)ように、何事も一度その渦中に入ってしまえば、人はそれなりに対処できるものなのだという思いを強くした。
もちろん、今回の場合、森下さんという心強い助言者や、書籍やネットという参考図書の存在にも助けられた部分はある。しかし、わたしはなるべくそうしたものに頼らまいとしていたし、そうしたものを半ば遠ざけてもいた。それは、自分のこれまでの人生において培ってきた、身体の動かし方やこの世界への接し方に関する蓄積を総動員することで、大方のことはできると信じていたからであり、またそれを確かめたかったからである。
今回、助言や情報にあまり頼らなかったこと、鶏小屋には不必要と思える箇所にまで手をかけたことには、別の理由もある。かねてからわたしは、自分で小屋を建てて住みたいと思ってきた。そう遠くない将来に実行するつもりでいるのだが、たまたま鶏小屋を建てる機会が先にめぐってきたので、来たるべきその時のための練習を兼ねてやろうと思ったのだ。
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結果として、思っていたよりも良いものができたことで、わたしは自信(自惚れともいう!)を深めた。一歩前進したという実感を得られたことは、生きてゆくうえでの活力になる。確かな一歩を踏むことでしか、次の一歩を踏み出すことはできないから。
さしあたって(死ぬまで)重要なことは、一歩また一歩と前進することであると信じる。われわれがどこにも行けないのだとしても。