牢獄における最良の選択としての田舎移住

 田舎の古民家に住むというのは、たしかに私の望んだことではある。「念願叶って」などと表記すると、いかにも積極的な選択としてここにやってきたと思われがちであるが、そうではない。この選択とて、いつもの消去法の結果にすぎない。よりマシな選択肢があれば、私はそれを選んでいたはずだ。

 そもそも私は人生に対して陽性の意味を見出したことがない。この世の生は、例えるなら懲役だと思っている。

 これを世代論として言うわけではないが、すくなくとも私の周囲には同様の姿勢で暮らしている者が幾人かいる。証言のひとつとして、このあいだ我が家に来た友人がFacebookに投稿した近況から引用する。

(東は)仕方ないから畑を耕している。僕は仕方が無いから東京で仕事をする。なんかこう…何かないかと探しながら。

 いかにも、彼も私も、厳正な消去法のすえに、仕方なく銘々の場所にいるのだ。尤もそれは自らの意思ではあるのだが、やはり他に仕方がなかったのである。

 

 ところで、私は特定の信仰を持たないが、しかし心中の主調として、生得的かと思われるほど強烈に、或る現世観を有してはいる。それは、映画『かぐや姫の物語』が主題として大写しにしているものでもあるが、「罰としてのこの世の生」というものだ。

 かぐや姫といえば、詩人の茨木のり子が、原作の『竹取物語』についてそれとなく書いていたものが想起される。

かぐや姫はなぜ竹の根もとで光り輝いていたのか、そして、どういういわれで天上へまた連れもどされたのか、天上で罪をおかしたその罰に、きたない地上へ降ろされたということが、チラリと出てきますが、『竹取物語』を原文で読んでも、肝心のところがどうもはっきりしません。〈中略〉この、あいまいで美しい『竹取物語』が、日本で一番最初の物語の祖(おや)となっているのは何故なのでしょう。

 思うに、文化史上最古の物語として『竹取物語』を持つ日本人とは、古くから、現世で生きることを罰として我知らず捉えてきた民族なのかもしれない。我が国の詩には、近代以後の作品のなかにさえ、同種の趣向のものを多く見つけることができる。尤も、キリスト教においても原罪なる観念があるところをみれば、あるいはこれは人類に共通する意識なのかもしれないが。

 

 とにもかくにも、上で私が、人生が懲役だと言ったのは、かかる意識のゆえである。懲役に積極的な意味を見出だせるわけがなかろう。

 こうして田舎の古民家に暮らす私は、牢獄にあって服役するなかで、ただ最良と思われる場所で、最良と思われる姿勢をとっているだけなのである。

 

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