田舎暮らしの想像と実際

 二日前、田舎暮らしは私にとって最良の選択であると書いた。

 手ぐすね引いて待ち受け、ついに開始した田舎暮らしであるが、予想以上の感動はない、というのが、一ヶ月半ほど経った今の偽らざる心境だ。

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 たしかにここでは、都会におけるよりも確度の高い生活がおくれる。この頃の私は、裏山で筍を掘ったり、薪で湯を沸かしたり、家の前の畑を耕したりして暮らしている。田舎では、多くのものが、金銭との交換によってではなく、直接自然に働きかけることによって得られる(そのいった環境は、ここ大宇陀には十全に用意されているから、今後も我が生活に占める貨幣経済の割合は減少してゆくだろう)。自然相手に、かつてないほど自らの手足を用いてみて、最初その張り合いのあることに驚いたし、自分の技術のなさ、自分の物理的な影響可能範囲の狭さをまざまざと思い知らされた。その点において田舎での自給的生活は、この世で最も確かなものと言えよう。これこそ私が長らく求めていた生活ではある。

 だが、最も望んでいたことが叶い、実際に田舎に住みはじめ、土を四六時中いじくりまわして思うのは、まあこんなものだろうということだ。この世でこれ以上は望めないとわかってはいるものの、そのことは私を幾分落胆させた。私はどこかで希望をいだいてもいたのだ。

 野良仕事は、人間を地上に接続し、生きているという感覚を鮮烈に喚起するものである。それは一種の充実感をもたらす。が、同時に、それが選びうる最も確かなものであるがゆえに、かえってここが仮の世であるということを凄絶に呼び起こさせるものでもあるのだ。作業に没頭しているあいだはよいのだが、ふと我にかえった折々に、郷愁に似たものが脳裏をよぎることがあって、あれにはどうにも閉口する。

 とまれ、それでも私は、あすも早起きし、黙々淡々と野良仕事に精を出すだろう。目下それ以上に確かなものはなく、それしか気を紛らせる術を知らないから。