前世の俺がよくやった結果、あるいは、前世の自分が積んだ徳を食いつぶす今世の僕の蕩尽生活

 前世での私の行いがヨッポド良かったとみえて、今の私はこの上ない環境にいる。

 この四月から管理人としてタダで住ましてもらっている古民家は、大いに老朽していて使えるのは主屋だけで、庭に草は生え放題、家自体今にも山に呑まれそうな具合だが、かえってそれが私の性質に合っているし、敷地として裏山も畑地もあって、私の当初の田舎移住の目的——自給技術の習得——にかなってもいる。

 また、いま私は、田舎の仕事のことなら何んでも知っている近所の森下さん(御年九十歳!年齢差六十五!)に「百姓見習い」として働きに行かせてもらってもおり、ほぼ毎日のように、かつての自給生活の模様を聞きながら、仕事の指南を受けている。

 そもそも、ここ大宇陀には自然という大いなる障碍が健在である。というよりむしろ、人間が少なくなってきた分、勢力を増してきている観さえある。我が家の裏山には、鹿もいれば猪もおり、兎や狐までいるし、畑ではしょっちゅう蛇も見る。裏山の筍は猪に掘られ、畑は土竜に掘られる。庭に放していた鶏が、狐に襲われかけたこともある。

 いわば私は、そのような張合いのある確かな障碍を求めて、田舎への移住を切望してきた。そしてここには、それに十全に応えてくれる環境がある。

 私は今、「前世の俺よくやった」と言いたい。今世の私の数々の悪行にもかかわらず、これほどまでにうまい具合に事が運ぶところを思えば、前世の私の善行ぶりも想像に難くないというものだ。

 あわせて、余談だが、私は学生時分に弓道をしており、ここに来てそろそろ再開したいと思っていたところ、なんとすぐ近くの寺に弓道場があったのだ(弓道場などそうそうあるものではない)。

 しかし、こうまで万事都合がよくては、私の徳貯金残高ももう底を突くのではないかと、慄きふるえる日々である。