土竜捕殺時のわが内面模様
すでにわたしは、畠でモグラを四匹捕殺しているのだが、初めてのモグラ捕獲時に書いておいた所感を掲載したいと思う。
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われながら見事であると思った。
少し前から、畠がモグラに掘りまくられ、植えてある各種の野菜にも被害が及んでいたので、捕獲器を仕掛けておいたら、一晩で早速掛かっていた。
串刺しになったモグラを見て最初に感じたのは、「やった」という歓喜の感情だった。初めてのモグラ捕獲にして一日で造作もなく仕留められるとは、自分の自然に対するある種の筋や嗅覚は、なかなかこれ見込みがあるではないかと鼻を高くしたし、これでしばらくは畠も安泰だと安堵しもした。
ついで、地上にその屍体を取りだし眺めたとき、可哀想だとやや思った。その哀憫の情は、埋葬を終えてからも暫時持続した。俺だってお前を殺したくて殺したわけではない、これも俺が生きるためだ、俺とてメシを食わねば生きてゆかれぬ現し世に生きる同じ身の上だと弁明した。
モグラよ、たまたまお前はモグラに生まれ、ゆえにミミズを食って生きたように、たまたまわたしは人間に生まれ、ゆえに野菜を食って生きるためお前を殺した。そこに断じて他意はないのだ。
申し訳なさを感じないわけではないが、また、お前の命を軽んじるわけではないが、この世に生きる以上、こういった場面は多々あり、いちいち心を動かしていられないことも亦、動かしがたい事実だ。今回がたまたま私にとって初めてのモグラ捕獲であったので、かように幾分かの感動があったまでで、同種の局面に臨む度ごとそれも薄れてゆくだろう。
ともあれ、今回ばかりはともにしばしこの世を呪おう。何んのいわれでわれわれ生物は殺しあわねばならない?生きて死ぬこととは、われわれにとって重大事であるにもかかわらず、世界はきょうも淡々とありつづける。こんな不条理なことはない。われわれは一体いつまで殺しあい、生きつづけねばならないのか。
尤も、生まれてしまったあとでこのようなことを述べても詮ないことではある。しかし、このことが未解決のままでは、死ぬに死にきれぬし、生きるに生ききれぬと感じることがある。
甲斐なき生を、あすもわたしは生きねばならず、モグラよ、そのためにわたしはお前の同胞をまた殺すであろう。しかしどうか、目をつぶっていてほしい。わたしもやがて、この世界に造作もなく殺されるのであるから。
それにしても、死ぬことは生きることよりもつらいことであろうか。