破壊に関する覚書き

 廃墟マニアと呼ばれる人たちが増えているらしい。廃墟に特有の美を見たり、好奇心から探検の対象としたり、往時に思いを馳せ諸行無常を感じたりと、人によって廃墟への興味の持ちようはさまざまだろう。かくいう私も、廃墟マニアとまではいかないが、打ち捨てられ、自然に侵蝕された建造物に心惹かれる者の一人だ。
 しかし私は、廃墟を廃墟として好いているというよりは、むしろ、日光や風雨や植物によって破壊行為が進行しているその様にしたしみをおぼている。
 

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 ともかく破壊という行為は、それを他者がおこなう場合でも、自分がおこなう場合でも、いつも私を楽しませてくれる。破壊行為には、生産行為にはない「ほがらかさ」がある。
 そもそも本質的に、生産は「集合」であり、破壊は「解放」である。何かを作るとき、われわれは自然の或る要素をその物の完成にむけて集合するのに対し、何かを壊すとき、われわれはその物の各要素を自然にむけて解放する。ほがらかさの有無は、こうした両者の質的相違によるのであろう。
 私の行為における好みは、破壊に傾斜している。何かを生産することも好きではあるが、その悦びも、やがては破壊する/される際の悦びの一部の先取りか、すくなくともその予感として感覚されているのではないかとすら思うことがある。
 
 結局のところ、生産は破壊に及ばないと思われる。
 我々とて、死という破壊によってこの生を終える。破壊されたのち、私であったものは分解され、やがて宙宇の原理によって、別のものたちが生産されるであろう。同様に、現在私であるものも、かつて別のものたちであったのだと思う。 
 宮沢賢治のこんな言葉を思い出した。
すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから
 この文言の意味するところを私が正確に理解しているとは言えないが、ともかく、きょうの私にとっては私でないものも、きょうの私でないだけで、すべてきのうの〈私〉であったかもしれず、すべてあすの〈私〉であるかもしれない。
 破壊されては生産され、生産されては破壊される〈我々〉であるけれども、一生産物としての立場――つまり現在の自己から見れば、その最終的破壊としての死はおそるべき脅威に映る。だが死は、現在輪郭をもつ個体にとって存在解体の脅威であると同時に、自然の原理によって不可抗的に集合され形成されてしまった自己の甘美な終局でもある。
 
 生産と破壊のくりかえしへの認識は、現在の〈我々〉をして、おなじ身の上として互いをいとおしませ結びつけさせるのに一役買う。だが他面で、その有無をいわせぬくりかえしの理不尽さへの怒りを併発しもする。
 そんなわけで、我々が日常おこなう大小の破壊行為には、単に日頃の不満解消などというチンケな動機よりも、もっと根源的な部分への異議申し立てや〈解放〉への意志が、その基層にあるように思われる。