実生活に関する覚書き

 もったいつけて、ヨガだ座禅だ瞑想だの(その他多くの同種行為)を生活にとりいれ、挙句これ見よがしに持ちだしているうちは、人類はまだまだなのだろう。わざわざそんな面倒なことをせねば、宇宙の原理(みたいなもの)にいまだ触れられないとは、じつに嘆かわしいことではないか。宮澤賢治が見たら悲しむにちがいない。
 

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Wikipediaから拝借)

 たしかにそれらに手をだすことは、自分自身からの倫理的追及への敏感な反応として評価されるべき点もある。だが、そうして彼らの敏感さを定位するならば、その作為的に代償機会をとりいれねばならないことはそのまま、実生活の形態が霊感の生成力に貧しいことをあらわすのではあるまいか。
 しかも、そのような生活全体の仕様の変革ではなしに、新たな一部の導入によって生活を代償する行為は、なるほど変革の初期において、あるいは変革の前夜においては、進むべき方向を啓示してくれるものであるにしても、その性質の対症療法的であるがゆえに、かえってそれは、変革を遅延させる自己欺瞞に容易に転化しもする。それさえしておけば、一応その間、ないしその後しばらくは、自分自身からの追及を回避できるからである。
 が、そういった「懐柔策」をいくら弄してみても、自身の倫理的追及は一時的に潜在するのみで、決して解消されることはない。形態としての実生活の、〈原理〉に違反する部分のあるかぎり、感性が敏感であればあるほど、事あるごとに彼らはその呵責にさいなまれつづけるであろう。
 
 かつて宮澤賢治は、このように呼びかけた。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
 いまもってこの呼びかけは、われわれの心をとらえてやまない。が、そのことはまさに、われわれの相も変わらず停滞していることを意味しはしないか。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という、巨視的な人類全体(あるいは生命全体)の水準における、彼の壮大過激にしてごく素朴な倫理的判断を、微視的な個人の水準におけるそれに通俗変換するならば、「生活がぜんたい幸福にならないうちは自我の幸福はあり得ない」とすることができる。世界にしても、個人の生活にしても、その全体の救済と解放なしには、ついに「まことの幸福」はおとずれない。
 
 つまるところは、われわれが実生活そのものを全面的に変革しなければならないということである。それは峻嶮をきわめる。それでも、これまた宮澤賢治の言うように、われわれは「苦痛をも享楽」しながら、「苦難を避けずに直進」するのだ。
 解放への道のりを歩く、その正しく強いほんとうの一歩一歩が、すでに解放なのであるから。