日記 五月廿五日(平成廿八年)

 書くということ――それが自分にとってたいへんな重要事なのだと、ここ一二ヶ月、ほとんど野良仕事にのみ時間をついやしているあいだ、感じつづけていた苛立ちによって思い知った。

 わたしはこれまで、他人に見せられるかどうかの自分のなかの一線を超えたものしか公開しておらず、Evernoteには書きかけの文章が積りに積もっている。しかし、書いたものを社会のなか(それが片隅であろうとも!)に投げてはじめて、わたしにとって「書いた」ことになるのだと感じはじめている。

 書かずにはいられぬなら、それを他人の目に触れるようにせずにはいられぬなら、こころみに、ちょろちょろとわたしのなかを通っている思考の流れに樋をかけ、このちいさなブログという田にたらたらとそれを引きたいとおもった。この際、従前のようにダムをこしらえ水質を調整してから注ぐこと――つまり、まとまりがどうだの、起承転結や面白味がどうだの思案することはやめて、ただただ流れのままに書きつけることだけをしてみたい。田んぼにどんなものが育つだろうか。

 おそらく、わたしがそうするのは、ニンゲンという同種間で呼びかわしたい本能的欲求(フェロモン!)からきている。その手段として「おおやけに書く」ということがわたしの性分にかなっているのであろうと思う。だからここに、だれに届くかも届かないかも知れない一抹の光を放ってみる(この表現はたぶん、最近わが家の隣に流れる小川に出だした、蛍たちの発光に感化されている)。

 

 「公開日記」という体にはしておくが、ふだんわたしは昼間の野良仕事を最優先に暮らしているので、どうあっても毎日は書けない。夜は飯を食ったら早く寝るし、昼も雨が降らないかぎりは野に出ている。それで十分なようだが、それだけでは充たされない面倒なニンゲンなのである。そういえば、小林秀雄がこんなことを書いていた――

人間は、正確に見ようとすれば、生きる方が不確かになり、充分に生きようとすれば、見る方が曖昧になる。誰でも日常経験している矛盾であり、僕等は永久に経験して行く事だろう。 (イデオロギイの問題) 

 彼のいう「見る」ということが、わたしにはどうも精神衛生上必要な行為らしい(もっとも彼がどういった文脈でこう言っているかは本文を読んでいないので知らない)。しかも、立ち止まって、「見る」ということである。動きつづけていてはできないことである。となると「見る」とは「立ち止まって考える」ということとほとんど同義なのかもしれない。

 しかし最近、『歩きながら考える』というリトルプレスのあることを知った。こちらも読んだことはないので、名前の意味合いや内容は知らないが、世の中には「歩きながら考える」ことのできる器用な人もいるのだと感心した。わたしなぞ、たとえば野良仕事の途中にふと或る考えの断片が脳内をよぎることこそあるものの、「考える」となると、ほかの事柄を放ったらかして文字どおり専念せねばならぬタチである。実際、わたしは晩飯をまだ食っていない(22時現在)。

 

 近ごろ感じていることを思い出せるままに書く。

  •  わたしはスッキリしすぎているもの、淡すぎるもの、軽すぎるものを好まない。そういう雰囲気にだまされてたまるかというヒネた感性。一方で、炭酸飲料的なものは好きである。でもやはりそれだけではいけない。甘みはほとんどいらない。なにかしっかりとした味(ジンジャーエールの生姜など)がいる。ここで気をつけねばならぬことは、炭酸水に味を添加するのではなく、味に炭酸水を添加することである。炭酸水はあくまであとから味に添えるものである。なのに炭酸ぽさを出すことに腐心しているヤツが多い印象があり癪である(地と柄の関係、中身とデザインの関係、等々に該当する)。ちなみに梅干しも大好きだが、ハチミツを添加するのは言語道断である。
  •  環境などへの懸念から、「貪らないこと」の重要性を倫理的な人がよく説いている。だがそれはムリな話ではないか。ニンゲンの性にかんがみるに、「貪り方」やその際の「視野」を変えるよりほかに仕方はないのではないか。それらを変えることが「貪らない」という表現にもなるのか。とにかくわたしは貪らずにはいられない。貪りつづけたい。
  •  大別して「直線」と「円環」の二つの世界観がある。わたしは前者から後者へ移行しつつある。殊にここ自然に富んだ大宇陀に移り住んでからは急速に。結局のところ、どちらが楽しいかという話だ。円環というと退屈なくりかえしのように聞こえるかもしれない。が、そもそもこの地球は球体で、自転と公転という円運動をしているし、太陽系全体が円運動をしている。ゆえに、そこに生じたわれわれが円運動に退屈するはずはないと考えられる。だがそれには、「地球のリズムに反しないかぎり」という注釈がつくであろう。もっとも、太陽系は円運動をしながらもどこかに移動しているのかもしれないが、しかしそこには円運動が前提されている。くわえて、生物種個々の生き死に、毎日の日の出日の入り、季節のめぐり、等々、いくらくりかえされるものとはいえ、まったく同一の瞬間はなく(たとえあってもわれわれの一生のうちではまずない)、しかも同一のようにかんじられる経験にさえわれわれは感動する。要は、感性の問題である。

 さて、あしたはひさしぶりに雨らしく、今晩はひさしぶりに夜ふかしすることにしよう。グザヴィエ・ドランの映画でも観るのでここで筆をおく。そのまえに、煙草がきれたのでコンビニに買いにゆく。