アレロケミカルがありあまる(日記)

 前回の「日記」で、フェロモン (生物の同種個体間に作用する物質) の圏域への、わたしの欲求について触れた。わたしにとってものを書くことは、ニンゲンという同種個々体へむけた、ほとんど一方的な発信であると。そして、わたしがそうせずにいられなかったのは、ここ数ヶ月のあいだ、あまりにフェロモンを生産また受容せずにいたからであると。

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 生物個体内部に発生作用する物質をホルモン、同種個体間に作用する物質をフェロモンという。これらはよく知られたものであるが、いま一つ、異種個体間に作用するアレロケミカル(アロモン、カイロモン、シノモン)なるものがある。くわしくはネット検索でもしてもらえればよい。

 ともかく、大宇陀に移り住んでから、わたしはフェロモンよりも格段に多くアレロケミカルを感受し放射する日々をおくっている。暇があれば田畠に山にくりだす。そこにニンゲンはいない。ただもう種々の草木、虫獣が犇めいている。彼らは、あるいは共助し、あるいは妨害し、あるいは利用し、それぞれに関わりあいながら生きている。その輪のなかへ参加することは、きわめて愉快で甘美な経験である。

  が、ときにそれは危険な経験でもありうる。インディアンたちの言うように、自らの「裂け目」を開らきすぎてはいけない。これには微妙な加減が要る。輪のなかに加わるために自分を開らきながらも、いつでも閉じる用意をしていなければならない。そうでなければ、不意に足をすくわれる。われわれは、裂け目によって力を得るとともに、裂け目によって死ぬのであるらしい。

 それにしても、いわゆる里山というのは、ニンゲンと自然との境界に位置し、両者の力の均衡が見事にたもたれている場である。われわれが日常的に、特段の身構えや大掛かりな装備なしに、自然との交感を楽しむことができる場であるといえる。

 

 さて、話をもどす。わたしは、こうした異種生命との関わりをもとめて大宇陀にやってきたのである。都会にはニンゲンばかりで、いきおいフェロモンの交感しかなく、つまらない。対して田舎には、アレロケミカルがあふれている。

 断っておくが、自給自足をめざしているかに見えるわたしが、もっと人の世と隔絶した山奥に行っていないのは、なにもアレロケミカルのみを求めているのではないからだ。

 去年だったか、ヨーロッパのほうで、数年前に失踪した男性が山奥で孤独に暮らしているのを偶然発見されたというニュースがあった。彼は「人間社会で生きたくない」などと言い残し、また山のなかへ消えたという。

 彼に共感する部分もないではないが、わたしはあくまで人間社会の一員としてフェロモンを交感しつつ、アレロケミカルをも十全に交感したかったのである。これが、大宇陀という見様によっては中途半端な田舎にわたしが越してきた所以である。

 

 つづければだらだらと長くなるのでここらで筆をおく。あしたも早い。