米を作ってから来い
米を自分の手足*1で作っていない者の言うことは、とりあえず聞かなくてもよいとわたしは思っている。
考えてもみてほしい、生存必需品の筆頭たる食糧を、(作ろうと思えば作れるにもかかわらず)自分で作らないままに発せられる言葉とはいったい何か。米を作らないことは、生きることを外注しているのにも等しい。自分で生きていない者の言葉には、それがどんな言葉であれ真実が欠ける。
なるほど今は分業制の世だ。そういう社会だから云々と、君らは反論あるいは弁解するだろうか。しかし、わたしにとっては現行の社会構造がどうであろうと、そんなことは関係がないのである。そもそも社会を盾にとる時点で、わたしが聞くべき言葉を君らが持っているとは思えない。
社会とは方便にすぎない。方便は利用すればよいが、方便は方便だ。真実ではない。そこに根を張っていては真実は語れない。自身の存立の基底にむかって徹底的な詰問をほどこせば、土に行きつくほかはなく、土に根を張ってこそ真実も得られる*2。
これは社会以前のひとりひとりの問題だ。生きるということ。このことはあまりに等閑されている。「生き方」が乱立する時代だが、わたしに言わせれば、大方の自称する「生き方」など生き方の数に数えられるものではない。生きて何かをする前に、生きること自体をすべきだ。
まずは米を作れ。話はそれからだ。