日記「エンヂンの音」

九月廿五日(月)

 草刈り、刈り草集め、昼飯、英語の勉強、草刈り。

 昨晩の「枝豆まつり*1」で飲んだから、一日の開始が幾分おそかった。

 *

 わたしが田んぼを借りている家にこんな短歌が残っている。

エンヂンの音のみ響く 孤独なり
継ぐ者無き田の畦草を刈る

 おそらく三十年ほど前くらいのことかと思うが、この歌が詠まれた時点では後継者がいなかったのだろう。しかも、田んぼはやや奥まった場所で、そこにいるとあまり人の姿も見えない。そこへみて刈払機の「エンヂン*2」の騒音によって、周囲から余計に自分が切り離されている。後継者の不在と隣人の不在。二重の孤独がうたわれている。

 今はわたしが田を引き継いでいることになるので、後継者という点ではこの内容はあたらないものの、さて実際、刈払機のエンヂン音は排他的にやかましい。使用中は近くで他人が叫んでも聞こえないくらいだ。しかし周りの音を犠牲にしても、鎌と比べればその作業効率は雲泥の差であるから、皆あたりまえに使っている。一振りで味噌も糞もなくきれいに刈れてしまうのだ。

 これら刈払機の排他性と暴力性とは、使用者をして作業に没入さしめる。人間の征服欲みたいなものをカンタンに充たしてくれるからだろう。わたしも刈払機を使うのは好きだ。

 が、どんなにきれいに刈っても、夏場はひと月もすればまた草は伸びてくる。わたしにとってはそれもよろこばしい。さすがに仕事が混んだ時などはうんざりすることもないではないが、征服の機会がくりかえし与えられるということであるし、草が生えないよりは生えたほうがよい。

 畦にはいろいろな草がある。ひとつひとつを具に見るわけではないし、ほとんど名は知らないが、それでも多くの種類があるのはわかる。これら全部にすでに名前がついているのだと思うと、刈りながらなんとも言えない気持ちになることがある。

 

*1:大量の枝豆だけで酒を飲む会

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*2:「ヂ」の効果!