日記「ほなみちゃん」

十二月丗日(土)

 晴れ。

 棚田の整備、昼飯、縁側で昼寝、麦踏み、あそびにきた教え子どもと焚き火、棚田の整備、帰宅して来年用の種籾の脱穀

f:id:shhazm:20171230221454j:image(種籾の脱穀を手で行う)

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 年末ということで、人間社会はなんとなく浮ついた独特の空気になるが、里山は年末だからといって特段なにかが変わるわけでは勿論ない。冬至がすぎ、すこしづつ季節が進行しているだけだ。

 わたしは、社会よりも多分に里山側の存在であるので、やむをえず社会側に出向く(実家に帰る)ギリギリまで、里山の存在として普段と変わりなくすごしたかった。

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 のろけ話をしたい。

 稲、わが命の光、わが胃袋の炎。わが罪、わが魂。

 連日、日が暮れて帰宅してから、夕餉の前後に種籾の脱穀をしている*1。食用とはべつに、特に育ちのよく見目うるわしい株をわけて、来年の種として干しておいたものだ。

 食用と同様に足踏み脱穀機を使ってもよいのだが、それではなんとも味気ない。この手で、一本一本しごいて籾を落とせば、なんともいとおしさが込みあがる。親愛の念をこめて、彼女ら*2のことを、たとえば「ほなみちゃん」と名づけることにわたしは吝かではない。

 もはやこれはある種の恋であると認めよう。脱穀した籾の山に鼻を近づけて、さわやかな草の匂いをかげば、夏場の田植えや草取り等々、経てきた日々が偲ばれる。この多幸感は他に比類のないものだ。

 この多幸感を得ることは、全くもって合法的であるばかりでなく、なんらの文明の利器をも必要としない。身一つあれば事は足りるのである。

 ほなみちゃんのことを、生涯大切にしていきたい。

 

*1:毎食の米ももちろん自給したものだ

*2:「彼ら」でもよいがわたしは異性愛者であるから