見田宗介さんからの祝辞について

 先日、なんとあの社会学界の大御所、見田宗介さんから『つち式』に祝辞をいただいた。

一足早い高原の祝福の日々に乾杯!

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 見田さんの著作には、日々を生きるうえでも、『つち式』を書くうえでも大変に励まされ、助けられている。そんな見田さんから祝福されて、わたしは欣喜雀躍した。
 写真は、うれしさのあまり作成した栞である。オモテ面に祝辞を、ウラ面にニクオスの雄叫びシーンをあしらった。おそらく誰も気づいてくれないので言うが、これは表裏で「高原/光源の到来を告げる声」が表されており、「コウゲン」の言葉あそびが隠されている。
 
 さて、見田さんの言う〈高原〉とは、人間が文明の成果の高みを保持したまま、これ以上の「成長」を不要のものとして完了し、どんな搾取も汚染も破壊も必要のない、身近な人たちとの交歓や自然と身体との交感といった〈単純な至福〉を享受しつづける、来たるべき時代局面のことだ。
 くわしくは見田さんの著作を参照してもらいたいが、最新著『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)から引用して紹介する。

 幾千年の民衆が希求してきた幸福の究極の像としての「天国」や「極楽」は、未来のための現在ではなく、永続する現在の享受であった。天国に経済成長はない。「天国」や「極楽」という幻想が実現することはない。天国や極楽という幻想に仮託して人びとの無意識が希求してきた、永続する現在の生の輝きを享受するという高原が、実現する。
 けれどもそれは、生産と分配と流通と消費の新しい安定平衡的なシステムの確立と、個人と個人、集団と集団、社会と社会、人間と自然との間の、自由に交響し互酬する関係の重層する世界の展開と、そして何よりも、存在するものの輝きと存在することの至福を感受する力の解放という、幾層もの現実的な課題の克服をわれわれに要求している。
 この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に充ちた困難な過渡期の転回を共に生きる経験が「現代」である。(17,18頁)
 ということで、畏れおおくも、「一足早い高原」として『つち式』を言祝いでいただいたのである。
 

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 わたしは『つち式 二〇一七』を書くとき、見田さんの著作の存在を終始うしろ盾のように感じていた。いわば、つち式という建築の骨格の太い支柱として、また、〈生きる〉ことが本来それ自体限りない恍惚の連続であるという確信の揺るぎない裏付けとして。
 
 『自我の起原』(真木悠介名義)からは引用もしている。
 われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の色彩、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
 Ecstacyは、個の「魂」が(あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が)、このように個の身体の外部にさまよい出るということ、脱・個体化されてあるということである。真木悠介『自我の起原』岩波書店 第8刷 145頁

f:id:shhazm:20180914182940j:plain (『つち式 二〇一七』「米、大豆、鶏卵(、大麦)」51頁)


 さらに『自我の起原』からは、初版あとがき最後の段落の一節に習い、もじって、『つち式』のあとがき風の記事の末尾を結んだ。

f:id:shhazm:20180914183014j:plain(『自我の起原』 197頁)

 この、不可解にして、困難にして、甘美な生を、十全に生きてゆこうとする意志が、各所で芽吹きつつあると信じる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものが、まっすぐに語り交わされはじめた(そして同時に為し交わされはじめた)時代を生きる世代たちの内に、今しも萌そうとする青青とした意志の芽を賦活することだけを願って、わたしはこのライフマガジンを世界の内に放ちたい。(『つち式 二〇一七』「十全に生きるために」102頁)

 見田さんが「逆風の中」に播かれた種子の一つの芽として、各所で萌しているであろう他の芽たちに向かって呼びかわすつもりで、わたしは『つち式』を書いた。その声を後押ししてくれる追い風のような声、誰あろう見田さんご本人からの祝福の声が届いたのだ。
 一介の自費出版雑誌には過分な栄誉だが、一層誇りをもって「高原の祝福の日々」をおくっていきたいと思う。