里山へ
考えてみれば、自立した個人にとって同種他個体が必要なのは、再生産のためだけである。個人の生存にとって常時必要なのは、同種ではなくむしろ異種たちの存在である。
したがって、個人にとっては異種たちとの関係のほうが桁違いに切実であるはずで、日常的には、異種関係をよりうまく結ぶためだけに同種関係はあるといってもいいくらいなのだ。それが、高度に分業化し、そのため個人の生が幾重にも間接化された社会では、同種関係のほうがより重要だと受けとられるのが慣例となる。
分業は、個人の生の効率を向上させる。が、分業が高度化することで、本来異種関係に張られるはずの個人の存立の根は、同種関係に張られることになり、それが自明視されるにおよんでは、もはや生の効率化などといった目的は消え失せ、生きることは同種間でうまく立ち回ることでしかなくなる。いきおい、どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く結果となる。
先日、千葉雅也氏のインタビュー記事を読んだのだが、関連すると思われるので紹介する。
現状の分析として、グローバル資本主義の激化により「ありとあらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大体の物事はパターンの組み合わせだという見切りがついてしま」い、「文化的な面白さが尽きてしまった」と述べられている。その上で、だからこそ既成のコードに従うのではなく、脱コード化としての「勉強」をとおして新たなコードを創出してゆくことが提案されている。
納得できなくはないが、そうした先進諸国の人々の直面する閉塞は、上で見た「生の間接化」に端を発しているとわたしには思える。そもそもが間接化された生の上のことであれば、いくら手をかえ品をかえ「面白さ」の変種を発明したところでどれも高が知れているというものだ。
記事で述べられてあるとおり、文化的未踏地がある(と見られる)段階ならば「脱コード化」し飛びたつこともできようが、あらゆる地点はすでに踏破され、それらのカタログが出揃ったかに見えるとなれば、その手も容易には使えなくなる。残された手札といえば、できあいのコードに黙して従うか、そのコード内で工夫をこらして楽しむか、それでもなお「勉強」によって現行のコードを離陸しあらたなコードを目指すか、といったところになるのだろう。
だが、ここで肝要なことは、飛翔する以前に、根をおろす先を再考することである。なぜなら、飛翔の「面白さ」が失われる要因は、飛翔によって得られる目新しさの可能性の喪失というよりも、その飛翔先——つまり次なる着陸先が、結局は人間関係というある限定された代償的土壌のどこかでしかないことだ。試みられる文化の「面白さ」が新奇性をその条件にしなければ成り立たないことが、それらが根本的には面白くないことを物語っている。
このあたりのことについて、真木悠介(見田宗介)氏が示唆的なことを述べている。
われわれの根を存在の中の部分的なもの、局限的なもの(家族、郷村、民族、人類、等々)の中におろそうとするかぎり、根をもつことと翼をもつことは必ずどこかで矛盾する。[略]
しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。*1
人間といえども、人間社会を超えて広がる、異種たちの生き交わす大地に支えられるしかない。にもかかわらず、人間が局限されたものとしての人間関係に根をおろしつづけるかぎり、「飛翔する〈翼〉の追求が生活の〈根〉の疎外であり、ささやかな〈根〉への執着が障壁なき〈翼〉の断念であるという、二律背反の地平は超えられない*2」。
翻っていえば、人間が同種関係という局限的なもの、つまりコードにではなく、異種たちとの関係という全地球的な地平に直接根をおろすならば、その上で人間はどこへも行くことができるし、どこへも行かないこともできる。コードの選択は自在となる。
そこでわたしは、現実的な道行きとして「里山に生きること」を提出したい。
わたしは『つち式 二〇一七』において、里山を「自然の範囲にまで拡張された社会空間であり、人間社会をも含めた自然空間」と定位し、それを「人間と自然の合作」だと書いた*3。里山はその性質上、人間社会と自然空間の明確には区切られない中間に位置する。中間といっては狭く聞こえるかもしれないが、日本の森林は国土の約7割を占め、その内の4割が人工林である*4こと、さらに山林に隣接する農地までを里山に含めるならば、里山空間は相当広く人間を取りまいているといえる。
わたしは普段、里山に生きている。その立場から、里山生活のこの上ない楽しさと希望的可能性とを書きたいのだが、その前に関連する批判を述べることによって逆に里山を浮かび上がらせたい。
上妻世海氏が、自著『制作へ』についての奥野克巳氏と古谷利裕氏との鼎談のなかで、自然との関係構築の現代的な難しさを以下のように述べている。
軸足を半分、花鳥風月に置くことは、感応的な身体を作る重要な役割を果たすでしょう。ただ、実行は難しい。いまや自然は非常に高価なものになっています。動物園に行っても、外側から一方的に見る消費関係が保管されてしまう。かといって、アフリカや南米に行くことなど、金持ちにしかできない。*5
たしかに動物園や植物園などでは消費関係しか結べないだろう。たしかにアフリカや南米の自然に出会うには金がかかるだろう。だが、そのように自然は都市内の一部や遥か遠方にしかないわけではない。先進国ニッポンといえども都市部から少し離れればいくらでも自然は充溢しているのである。
上妻氏はつづけて、「では普通の人たちは、消費し消費される生き方のままでいいのか。といえば、近代化された環境の中でも、身体が開かれる可能性はあるだろうと僕は思うんです」と述べ、身体の活性化の方法として近代の芸術家たちの技術やチェスゲームの応用を挙げている(小さな「差異の感受」や、チェスにおける視点の移動による「四次元」の獲得、等々)。
たしかに「二十一世紀の現代社会」の少なくとも都市部においては、そうした「技術」は有効なのかもしれない。だが、日頃里山に生きるわたしの立場から見れば、それらはどこまでも代償的な技巧だと言わねばならない。
さて、里山である。
上述したように、里山空間は日本のいたるところにある。くわえて地方の人口減少が問題となる昨今、里山はわたしたちの周囲に余っているとさえいえるだろう。つまり、そうしようとしさえすれば、わたしたちはいつでも里山生活に入ってゆくことができるのである。
わたしは約四年前から里山に生きている。米・大豆・鶏卵を自給し、比喩ではなく文字通り生きている。わたしは大地に直接根をおろしているので、あらかじめどのような人工的なコードにも影響されない状態にあるし、もちろん逆にどのようなコードを選ぶこともできる。
稲、大豆、鶏との共生の現場において、彼らは半ばわたしであり、わたしは半ば彼らである*6。またその過程でわたしは多くの他の生き物たちとも、利用し利用される関係として浸透しあっている。すなわち里山において人間は、非常にわかりやすくエクスタシーを生きられるということだ。
エクスタシーとは無我夢中、忘我の状態であるが、それが自己解体であってはならない。「我を忘れるためには我でなければならない*7」。そのようにしてわたしは、無数の生物たちとの相互越境状態において、里山空間を日々作り出している。
そして、里山が里山であるためには、人間の継続的な仕事が不可欠である。里山は、人間社会でもなく自然空間でもなく、またそのどちらでもあるような状態を保たれなければならないが、その均衡を作りだすために人間の仕事は不可欠である。そうした野良仕事はまた、自然との交渉のなかで攻勢と守勢、能動と受動、大胆と慎重、さまざまな態で適宜行われなければならないし、その継続性が要請されるからには人間同士の協働や継承も必要になる。そうした諸々の塩梅の絶妙に決まったとき、里山は目に見えて美しい。
それにしても、こうして人間の仕事が残されてあるとは幸いなことではないか!里山では、人間が人間であることが求められているのである。
わたしは、里山においてこそ、ホモ・サピエンスの本領が発揮されると考えている。里山は、人間をより人間にしてくれるはずである。お望みなら、里山に生きながら近代人であることも、時と場合を違わなければなんら支障はない。里山に根をおろしさえすれば、消費主義でもグローバル資本主義でもなんでもござれだ。それどころか、上で述べたように、むしろ大地に直接することで、人間はより自在に人間関係を、文明をさえ享楽することができるのである。
そう、だから、わたしはけしかけたい。諸君、里山へ行け。