征服の反復としての里山生活

 冬のわが棚田である。長閑な景色に見えるだろうか。

f:id:shhazm:20190131192447j:plain

 だが、里山のなかでも特に棚田は、とても長閑とはいえない汗と力の産物である。山に階梯を刻みつける最初の造成はもとより、その維持にも不断の労力の発揮が不可欠なのだ。悠長に眺めつづけていては山になる。
 里山の景色を長閑だと感じるのは、人間が征服済みの景色だからだ。しかし、すぐにまた反乱は起こってくる。人間が負ければ、鬱蒼とした景色になる。それを長閑だとは思わないだろう。
 
 里山は、人間と自然との戦闘地帯だといってもいいくらいだ。熾烈な争いが日夜繰り返されているのである。
 だから、定年後の人や都会に疲れた人ではなく、若くて力のある人に里山は向いている。この辺のことがあまり理解されず、里山がある種の保養所や避難所のように考えられていることに、わたしは苦々しい思いをいだいている。
 いつかは里山生活をしたいと思ってる人は一刻も早く行ったほうがよい。戦闘こと里山生活は、体力がなくなってからではあまり楽しめないだろう。くりかえす、里山生活は戦いなのだ。
 
 先日、人間の手が入らなくなって鬱蒼とした長閑ではない土地を、再び里山として取り戻そうとしている人と知り合った。以下は、その人の手伝いをすることを決めた日のツイートのまとめである。
 きょう、農業で独立しようとしてる人に候補地を見せてもらった。そのうち一つは見事にササやアワダチソウの生い茂る耕作放棄地だった。手伝いを二つ返事で承諾した。一目見て、刈払機で暴れまわりたいと思ったのだ。完膚なきまでに征服してやる、と。
 一回目の草刈りは、刈るというより殴るに近いものになるだろう。エンヂンをガンガンに噴かしてズタズタにしてやる。胸が高鳴る。血が騒ぐ。人間に生まれてよかった!我が物顔で濫立するあいつらをこの手で叩き切るのが楽しみで仕方がない。殺す。絶対殺す。里山万歳。
 嗚呼、血湧き肉躍るとはこういうことをいうのだな。あゝ草大好き。刈っても刈っても生えてきてくれるのだ。俺にくりかえし征服されるために!毎年毎年バカみたいに生えてこい。毎年毎年バカみたいに刈ってやる。共生の愉悦!
 何かを征服せんとする暴力の行使にともなう悦びは否定しがたい。われわれの身体には最初から〈力〉が準備されているのである。
 無論、征服の対象は選ばなければならない。殊に人間が人間を征服する行為は、今や断罪されてしかるべきであるし、そのような愚かな征服者をわたしは同類と認めない。
 だが、だからといってあらゆる征服の悦びを捨て去る必要はどこにもない。力の行使に愉悦はともなわないなどと言う向きがもしあれば、わたしは彼を嘘吐きめと罵るだろう。
  里山はその点、人間による征服をむしろ前提しているから、頗るやりやすい。わたしは求められ、かつ、自ら望んで、おもうさま力を揮うことができるのである。
 
 以前、「至福の反復としての里山生活」という記事で、〈人工の愉悦〉と〈共生の愉悦〉をくりかえし両得できるという点で里山生活は至福の反復だと書いた。『つち式 二〇一七』にも加筆修正して同名記事を掲載している。

yaseikaifuku.hatenablog.com

  今回わたしのいう征服とは、〈人工/共生〉のうち人工に傾いたものだというべきだろう。
 なぜふたたびこうして里山生活について書くのかというと、上の記事では、里山には二つの愉悦があるという原理的なことを言いたかったために、ある意味では征服(人工)の悦びについて記述しきれていないと思ったからだ。有り体にいえば、少々きれいに書きすぎていると思ったからだ。

 いかにも、征服の際のわたしは攻撃的である。草刈りなら、目の前の草どもに人間の力を思い知らせてやるという一心で、共生などということは意識しない。というより、皆殺しにしてやると思っているくらいだ。
 しかし考えてみれば、それも自然の再生することが念頭にあるからだろう。だから征服の方法は選んでいる。
 草を征服するといっても、たとえば畦をコンクリートで塗り固めてしまっては、草は再生しないし、征服の愉しみが長年にわたり失われてしまう。そうした征服方法をとるのは全くもって寡欲的なつまらない者であり、征服者の風上にもおけない。真の征服者たる者は、何度も何度も征服の愉悦に酔いしれることを望むはずである。
 つまり、共生の悦びはいうまでもなく、征服の悦びをくりかえし味わうためにも、反乱の余地を残す仕方で力を揮うことが肝要である。なにもそれは力を抑えることではない。共生可能的な方法の中であらん限りの力をもって征服するということである。そのたびに人間は遺憾なく力を放出する悦びを享受しながら、その結果として異種共生の悦びをも享受することができるのである。