刈払機礼讃

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 あたたかくなって、草がよく生えるようになってきた。ここ最近は刈払機を振りまわす日々だ。家のまわり、田んぼの土手、近所の人に頼まれたところ――いくらでもある。

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 刈払機のエンヂンを始動する時が好きだ。チョークを閉め、プライマリーポンプを数回押して燃料を送りこみ、リコイルスターターを引っぱってエンヂンをかける。すみやかに高まる爆音が仮借ない暴力を予告する。胸が共鳴して高鳴る。
 ハンドルを持つ。その重量が雄弁に〈力〉を物語る。エンヂンの振動が手に伝わり、いきおいわたしの脈拍も速まる。スロットルレバーで回転数を上げ、草の根元に刃をすべらせる。よく研いだ刈刃の滑らかな切れ味。為す術なくむざむざと切り裂かれる草たち。征服の左右運動。小気味よい殺戮のしらべ。
 しばらく刈ってから後ろを振り向くのも好きだ。そこには征服済みの野辺が広がる。刈っている最中は一振り一振りに集中しているのだが、その虐殺の積み重ねが広域の領土を完成させる。刈られた草たちは皆だらしなくひれ伏している。地表の断面の集合は、領土にかしずく従順な民草の顔を見せる。
 ところが、夏場はひと月もすれば草丈は元通りになる。さしずめ領土全域における度重なる武装蜂起である。それでこそ張合いがあるというものだ。わたしは民草の反乱を許容する。それどころか、推奨しさえする。里山の王たるわたしは、そのつど圧倒的な武力をもって騒擾を平らげるのである。

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 刈払機のハンドルの形状には幾つかある。一般的な両手ハンドル、自由度の高いといわれるループハンドルとツーグリップハンドルの三種類だ(http://www.agriz.net/servicect/index.html/2017/02/07/handle/)。
 この内わたしは両手ハンドルの刈払機を好んで用いている。
 上記のように、ふつうはループとツーグリップのほうが自由度が高いとされているが、それは、両手ハンドルのものに肩掛けベルトを付けるために生じる不自由から見た相対的自由にすぎない。ベルトをしなければ両手ハンドルであっても自在である。しかも、両手ハンドルは左右に力を入れやすく平面を刈るのにうってつけであるばかりか、持ち方を変えれば実は斜面でも刈りやすいのだ。

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 刈刃は左回転なので、基本姿勢は刈払機を体の右側に構えることになる。このようにして平面は刈る。わたしは肩掛けベルトを付けないので、右脚をすこし曲げ、両手と脚の付け根の三点で支える。

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 斜面を刈る際には、可動域を広くするために体の左側に構え、左手で柄を持つ。このようにすれば両手ハンドルでも斜面を刈りやすいうえに、右手で下方向への力も加えやすい。
 総合するに、里山では両手ハンドルの刈払機が最も優れているといえるのである。

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 サン=テグジュペリの時代の飛行機とおなじく、刈払機は道具として傑作だと思う。作業効率を格段に向上させると同時に、使用者に労役を要求するからである。便利になることはよいことであるが、便利になりすぎ苦労がなくなりすぎては、人工の愉しみが失われてしまう。刈払機はその点、絶妙な塩梅の発明品なのである。(この観点からいえば、電動丸ノコ、チェーンソー、インパクトドライバーなども同様にすばらしい。)
 その暴力性も称えておくべきだろう。刈払機はその名のとおり、草たちを刈り払うためにある。殺戮するためにある。その力量は、手鎌とは比べものにならない。刈払機を装着することで、人間は身体を延長し、暴力を増幅して解放できるのである。
 エンヂンの騒々しさもいい。耳を聾するその爆音は、有無をいわせぬ物騒な力の副産物だ。これが無音では征服の愉悦も半減してしまうだろう。
 振動と爆音の余波は、作業後も身体にしばらく残る。それは、征服を裏づける甘美な残響なのだ。

 縷々述べたが、征服の反復たる里山生活に刈払機は欠かせないということだ。刈払機は何もかもがいい。刈払機万歳。発明者が誰かは知らないが、わたしは彼を讃えたい。刈払機あってこそ、わたしは征服者としてこの里山に君臨できているのだから。