日記「あたりまえに尊い」

九月十六日(土)

 颱風接近にともなう雨で野良仕事ができずにずっと家にいる。朝からビールを飲みながら、アマゾンプライムで海外ドラマ(『ダウントン・アビー』)を見たり、小説(『存在の耐えられない軽さ』)を読んだりするが、退屈をしのぎきれない。

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 通俗な映画や小説で泣くことについて、最近友人との会話で言及している気がする。自分でもあとで驚くのだが、わたしはけっこうカンタンに泣くことがある。このあいだは映画『君の名は』でも泣いたし、今朝は上記のドラマ『ダウントン・アビー』でも涙ぐんだ。

ジャック・フォレスチエは涙もろかった。映画や、俗悪な音楽や、さては一遍の通俗小説などが、彼の涙を誘うのだった。彼はこうしたそら涙と、心の底からあふれ出る本当の涙とを、混同したりはしなかった。空涙というやつはわけもなく流れるようであった。

 ジャン・コクトー著『大股びらき』の冒頭の一説である。わたしはこれに共感したい。たとえば、映画の切ない場面でわたしの目ににじむのは「空涙」であって、ほとんど生理現象のようなものだと言い張りたい。それとは別に「本当の涙」とやらが自分にあるのかはわからないが、自分の名誉と自尊心のためにも、そういうことにしておきたい。

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 iPhoneの新作が出るらしいじゃないですか。顔認証やワイヤレス充電の機能が付くとか。テクノロジーの進展はまことにメザマシイですね。

 それはともかく、しかし、「新しさ」に身を投じすぎるのはよくないですよ。新しさに付いていけるうちはいいが、どうせそのうち年をとって付いていけなくなる。新しさにしか価値を感じられないでは、やがて自分に価値を感じられなくなるということですから。「新しさ」には付かず離れずのテキトウな距離をたもったほうがいい。

 もっとも、のちの悲惨には目もくれず、脳天からつま先まで時代の流行に追随し内面化するのも若人の特権かもしれず、それはそれで、やがて振り返ったときの思い出になればよい。年をとって、自分が「古く」なったときには、また別のところに価値を見出すのでしょうから。

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 不易のカテゴリーに属する営みに身を置くこと。

 わたしは流行よりも不易に関心がある。つまりは、メシを食ってクソして寝ること。これはどうしたって廃れようがない。とすれば、メシ(米)を作ることも不易に属するはずである。だからわたしは、iPhoneを使いながらも、米を自分の手で作っていたい。

 関連して、先日こんなツイートをしていた――

 わたしには、流行は不易以上にはなりえないという価値意識がある。もっとも、流行と不易とを同じものさしで計るべきではないかもしれないが、流行側の人間が不易を不当に軽視しているような気がしてならないのだ。

 メシを食わねば生きられぬ身でありながら、メシを作る行為を見下げてよいはずはない。メシを作る行為はあたりまえに尊い。あたりまえすぎるから軽んじられもする。しかし、軽んじたところで、人間それ以上のことなどできやしないのである。

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 昨今よく見られることだが、近代的生活の反省とか反動から、野良仕事一般を必要以上に持ち上げることは控えたほうがいい。

 衣食住に関わる仕事はあたりまえに尊いが、あたりまえであるので、あたりまえの位置に置いておけばよいのである。不当に貶めることも、不当に持ち上げることもせずに。

 たとえば、ニワトリを飼ってそいつらをツブして食べることを、殊更に忌避することと殊更に神聖視することとは紙一重である。家畜を殺して食べることはあたりまえの営みだ。

 あたりまえのことはあたりまえにしていたい。