愛され上手の生存戦略

 棚田の土手にリンドウが増えてきた。よろこばしいことだ。

f:id:shhazm:20181117204748j:plain

 この放棄されていた田んぼをやりだした二、三年前には、リンドウは数株しか残存していなかった。それまでは年にせいぜい二回ほどしか草刈りが行われておらず、いきおい全体的に草丈が高く、リンドウにとっては不利な状態であったのだろう。それが今、わたしが稲作のかたわらよく土手の草を刈るので*1、リンドウにとって好ましい環境になっているのではないかと考えている。

 尤も、彼らをよけて草刈りをするのは面倒ではある。しかしリンドウの花には、ほかの草と一緒くたに刈り払ってしまうには惜しいと感じさせる何かがある。花期、特別の注意を払ってわたしは刈払機を用いるし、誤って刈り落としてしまったときには、やってしまったとひどく無念に思うほどだ。

f:id:shhazm:20181117205259j:plain

 べつにリンドウがあることはわたしにとってなんの実益にもならないわけだが、その可憐な青紫色の花の存在が自分の行いに懸かっていると考えられることで、わたしの庇護欲はくすぐられる。実用性は皆無であるにもかかわらず*2、わたしからこれほどの寵愛をうける植物も珍しい。リンちゃんたちは、その清冽で奥ゆかしい花弁をもって視覚的に誘惑し、わたしの行動を思いのまま操ることに成功しているのだ。わたしはわたしの棚田において、リンドウの遺伝子の「延長された表現型」であると捉えることもできる。もはやわたしはいくらかリンドウなのである。

 リンドウは、人間の野良仕事を利用して勢力を拡大してきたといってもいいだろう。翻って、リンドウの咲きみだれてあることは、人間の仕事の行き届いていることを示す。リンドウの存在自体が、わたしにとって日頃の仕事への評価であり、また褒美である。

 愛され上手は、たとえ相手が自分は利用されていると気づいたとしても、むしろ一段と利用されようとするように仕向ける。最初わたしは知らず知らずのうちに手を貸していたのだが、彼らの増加を知って以来よりこまめに土手の草を刈っている。まんまとリンドウの術中にはまっているのだ。けだし、惚れたほうの負けである。

 

*1:田に影を作らないため、刈り草を肥料にするため、等々の理由がある

*2:根は薬になるらしいが、今のわたしにとっては意味のないことだ。