貪婪なわたしたち

 わたしたちの世代は、しばしば年長の世代から「欲がない」と非難気味に評されてきた。さすがに現在ではそうした声はすくなくなったが、いまだに耳にすることもある。

f:id:shhazm:20160301232923j:plain

 そうした声に対する、わたしたちの反応ないし反論は、「ほしいものがちがう(変わった)」というものだった。もっとも、具体的な場面の多くでは、その声が年長者から発せられたものであるために、わたしたちはただ「そうですかねー」と当り障りない返事をしつつ、恐縮の笑みをつくっては、煙にまくのがつねであった。
 その背後には、自分たちの「ほしいもの」を、きっと彼らは欲の対象と見なさず、それゆえ理解できず、それゆえ説明しても伝わらないだろう、といった気持ちと、自分たちの「ほしいもの」というのが実のところははっきりとわからず、それゆえ説明しづらい、といった気持ちがあるように思う。
 たしかにわたしたちの多くが、先行世代の熱烈に欲してきたもの(カネや贅沢品や名誉や地位、等々)をことごとく欲していないものの、それでもなお、わたしたちは熱烈に何かを欲している。だから、やはりわたしたちの世代は「欲がない」のではなく、別のものに「欲がある」だけなのだが、問題は、わたしたち自身にとってもその対象が明確に認識されていないこと、あるいは、それが容易に明確化できない種類のものであること、であろう。
 
 ワカモノたちの欲するものとして、たたとえば「つながり」というものがよく挙げられる印象がある。その発現形態が、シェアハウスへの居住であったり、地方への移住であったりするのだ、という主張もよく聞かれる。
 だがそう言われても、「なるほどわたしたちはツナガリを欲しているのか」と目からうろこは落ちない。当たらずといえども遠からずなのだが、それだけに隔靴掻痒の感がある。
 わたしたちが欲するものとは、一言では片づかないほど複雑な、それでいて、どんなに言葉をつくそうともかえって言いあらわせないほど単純な、〈根本的な〉何かである。
 もちろん、日ごろわたしたちは各様に考え、各様に振舞ってはいる。が、煎じつめてみれば、誰もが皆「生きること」を欲しているのではないか。
 いうまでもなくそれは、ただ生命を維持してゆくことばかりでなく、まさに「生きる」という包括的な営みの諸相を豊饒化し、十全に経験することであると思う。そのなかには、まちがいなく他人とのつながりもふくまれようし、それ以外にも、自由な創造、自然との交感、等々、無数の「味わい」がある。
 この世界の実相のひとつひとつを、豊かに味わいつくすこと。
 
 こうみると、わたしたちの世代は「欲がない」どころか、むしろ「欲があふれている」といってよいくらいに思えてくる。しかもそのことは、「いまのワカモノには欲がない」と言う世代の、逆に「欲がまずしい」ことを曝露する。
 かつて宗教や国家や企業や社会通念などによって演出され、限定され、強いられてきた「生」の窮屈さを脱し、ありのままの「生」をあますところなく享受したいという〈解放された欲〉につきうごかされて、わたしたちは世界を貪婪にむさぼってゆく。