自給行為にまつわる骨抜き問題について

 きのう、鶏舎の柵の扉が完成した。その野趣に富むデザインはわれながら見事だと思っている。

  そこでドヤ顔でfacebookに投稿した。

 しかし、この投稿の、以前の綿花についての投稿よりも反響がすくなかったことは、ある種の「ズレ」をわたしに感じさせる。

 たしかに、実利的な視座からのみ見るならば、綿花を自給することの実生活上の意義や可能性のほうに軍配はあがる。が、わたし自身の原理を曲解されるおそれなく能くあらわしているのはこの扉のほうだという認識があり、しかもそれを予想以上にうまく表現できたという自負もあっただけに、やや釈然としない気持ちになるのだ*1

 現在、綿花にかぎらずとも、自給するというとどこか先進的な行為と目される空気がある。それが嵩じて一種のオシャレでイケてるライフスタイル(DIY!)に祀りあげられるにおよんで、その行為が骨抜きにされ、上澄みのイメージが拡散されているきらいさえある。そうなると、自給の現場に色濃くあるはずの肝心の土の匂いが薄められることにもなり、結局はかえって土から一番遠いところに回収されてしまうのではないかと危ぶまずにはいられない。

 わたしとしては、自給行為をイメージ的な「流行」へ飛翔させるのではなく、実質的な「文化」へ軟着陸させたいのである。そのためには価値観の変換を要すると思っている。つまり、土の匂いのしない表層的で優雅で洗練されたものよりも、土の匂いのする「全層的」で粗野さすら感じさせるものにこそ価値を見出すべきではないか、ということなのだ。

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 そんなわけで、今回の反応のちがいには少々落胆するところがあった。このまま何も言わずに終わるのは癪なのでここに書いておく。

*1:それはちょうど、かつて三島由紀夫が「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」と言ったときの気持ちに似ている。