鶏を育てて絞めて捌いて食った

 先日、飼っている名古屋コーチン*1をはじめて食った。

 昨年十月に雛で買ってきたから、生後約半年、この鶏種でちょうど若鶏にあたる。卵をぼちぼち産みだしたところで、こんなに早くつぶす予定はなかったのだが、調子がわるくなり*2、恢復の見込みがなかったので決行した。

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 はずかしながら、俺は生まれてこのかた鶏を絞めたことがなかった。今まであれだけ鶏肉を食ってきたにもかかわらず、だ。殺さずに肉を食うだけだった。そのことへの、ほとんど無意識下の違和感や背徳感が毎食ごとに積もってきたのだと思う。いつしかそれとわかるくらいの大きさになっていた。

 だから今回つぶすのには、早すぎる無念さはあったものの、ついに自分の手で行うのだという臨場の緊張と高揚があった。まわりの人たちからは、情がわいて殺せないだろうと言われていたものだが、いざ絞める段になってみればためらいはなく、ただ見事に殺すことに集中していた。

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  絞め方はネットでも調べたが、雑誌『現代農業』のニワトリ特集にならい、首の関節を引っぱって外す方法をとった。その後、頸動脈を切って血抜きをした。 

現代農業 2017年 01 月号 [雑誌]

現代農業 2017年 01 月号 [雑誌]

 

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  湯につけ羽毛を抜けば、もうまったく肉に見える。ここまでくればあとは調理の範疇だ。

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 部位ごとに捌いて完了。案外かんたんなものだった。

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 翌日、焼鳥にして食った。うまかった。

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 われわれは、社会によって、殺さずして動物の肉を食べることをゆるされている

 われわれの多くにとって、どこかの誰かが殺した動物の肉を買ってくるのが当たり前であり、いつも肉はあらかじめ肉になって準備されてある。そうした社会の形態は長らくつづき、安定しているので、肉を食うこととその動物の死とがつよく結びつけられることはもはや、きわめて稀なことだ。

 しかし、殺さずに肉を食える状況は健全といえるか。その社会状況自体はゆるされるのか。状況の長短は理由にならない。むしろ、おなじ状況が長引くことは往々にして、そのことの是非を問う視力を減退させる。

 目の前に肉があるということは、当然その動物の生があり、死があったということである。

 わたしは、肉を食う以上は皆、せめて一度は自分の手で殺す経験をすべきだと思う。もっといえば、折にふれて、殺す際の手の感触を経験しつづけるべきだと思う。人間はじきに忘れたり、そうでなくとも観念的になったりするから。

 殺せないなら、肉を食うべきではないだろう。これは、その動物への敬意の問題というよりは、社会以前の自然の理への自覚と参加の問題である。

 われわれは社会に生きていると同時に、社会がそのなかに包含されてあるところの自然に生きている。たまたま現行の社会の仕組み上、自然との関わりをかぎりなく間接的に済ますことができるからといって、われわれ自身が根本的に逃れようがなく自然によって存立しているからには、自然との直接機会を避けつづけることは決してゆるされるものではない。

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 なにもこれは肉食に限定した話ではないが、こと肉に関しては、世に鼻持ちならない言動が多すぎる。身体的な直接経験の不足によって、人は容易につけあがる。

 無知から、多くは単に弱さと自己欺瞞から、肉を貪りながらその動物の死を遠ざける者に、肉の味がわかってたまるか。

 

*1:雌はニクメス、雄はニクオスと、まとめて呼んでいる

*2:いろいろ調べたところ卵管脱の症状と似ていた