野性奪還戰線

奈良の大宇陀に移住してきたやつのブログ

日記「生前天国」

九月十七日(日)

 颱風が直撃するというのでハナから休み気分で起きたら、全然雨が降っていない。それなら、ということで、見まわりとイナゴ*1捕りだけでもしようと田んぼに行く。行ったら行ったでじきに雨が降ってきて、早々に切り上げて帰ってきたらきたで雨がやむ。「もうええわ」と思い、休みにして、あとはまた一日家にいた。

 *

 以前、こんなツイートをした――

 こんな生活を思い描きながら、それにむかってわたしは日々進んでいる。前途はけわしいようにも思われるし、なだらかなようにも思われる。いまのところはまずまず順調といったところか。

 わたしにはこれ以上の生活は考えられない。おもえばこの生活像は、少年期に思い浮かべていた天国や楽園や極楽などの漠とした像を原基として、細部をいくぶん実際化・具体化した像であるようでもある。

 ところで、天国を天国として死後に想定することは、地上の生活を慰めもするだろうが、ときにわれわれに地上の改善をあきらめさせはしないか。天国を夢見て現在の不全にガマンするなど御免だ。死後の天国を俟つより、わたしは生前の「天国」を熱烈に求める*2

 しかし、地上の「天国」とはいえ、否、「地上の」天国であるからこそ、観念的な方向からのみの接近は失敗におわる。天国の像に引きずられて甘さをもって向かっても、天国は遠のくばかりだ。

 観念は軽く、肉体は重い。軽いものは動かしやすいが、われわれが地上に立つ以上は、肉体を動かすことによってしか地上のものは動かせない。動かしがたいからといって、動かしやすいものに逃げては何にもならない

 結局のところ「地上の天国」を構想するにしろ、その実現はまずもって、たとえば作物の種子を地上に播くというような、ごく肉体的な仕事からしか始まらない。

 重さを排除することによって天国に至ろうとするのではなく、重さの只中で、むしろ重さを受容することによって天国を実質的に作ってゆくこと。

 ✳︎

 雑誌をつくりたいと思っている。野良仕事の合間の「一休み」として、おなじく野良仕事をする同士と呼びかわすためのひとつの「合図」として*3

 

*1:ニワトリが最もよろこぶ餌

*2:この辺のことについては、見田宗介氏の言葉が力をあたえてくれる。

wpb.shueisha.co.jp

*3:逆にいえば、雑誌のための雑誌ではないし、野良仕事をしない者は読者として想定しない。