『微花』に寄せる

 去る先週の日曜日、友人でもある微花(@kasuka___)の二人のトークイベントに、なぜか突然行かねばならない気がして行ってきた。その予感はあたっていて、聴きにいってほんとうによかった。
 
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 『微花(かすか)』は、社会的な分類にしたがえばZine、リトルプレスであり、自称また個別的な顔は「季刊の植物図鑑」である。それも、一般的に図鑑にもとめられる情報とその量の一切を排し、いくつかの草花の名前と写真、それらにまつわる文章のみで構成された植物図鑑である(その理由は本書をひもとけばおのずと諒解される)。
 

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 『微花』は、身のまわりの草花の〈存在〉を指ししめし、日常の景色の豊かであることを鮮やかに開示する。それはそのまま、われわれの日常の視野のうちに花々を咲かせること、つまり「すでにある豊かさ」へわれわれの感性を開放することに他ならない。
 実際には咲いていたにもかかわらず、視野のうちに花々が咲いていなかったことは、〈開かれてある〉草花、ひいては〈開かれてある〉世界において、われわれが閉じていた、ということを意味する。さしずめ『微花』は、閉じていたわれわれの部屋にうがたれた、われわれと開かれてある世界とをつなぐひとつの窓である。
 『微花』という窓をとおしたわれわれの草花への視線は、その効用や使い道にむけられるのではなく、まずそれらの存在そのものにむけられる。それらがただそこに在ること自体に感嘆すること、開かれてある世界に自身を開いてゆくこと、そこから、われわれは世界を生きなおしてゆくことができる。
 もっとも、多種多様な生命の交響する「開かれてある環」としての世界に十全に生きなおすためには、なお実践の形態として「開いた生活」を要するものの、なにより先立つのは感性を開くことであるから、その点で『微花』は、読む人に世界を生きなおすきっかけをもたらすものである。
 

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 以上、トークイベントに行った記念に、僭越ながら『微花』について感想を書かせてもらった。
 わたしはせっかちで、しっかりと踏みしめるべきところを早足でとおりすぎてしまうきらいがある。そのため、そこで得られるはずの霊感や推力を吸収しきれないことがままあるので、時折たちもどらなければならないのだが、今回、考えの近い微花の二人の話を聴くことで、自分の「原理」を闡明することができた。そのことをわたしはいたく感謝している。
 
 ところで、微花の二人は今後、まさに自らうがった窓から見てしまった、目もあやな景色によって、窓の前に立ちつづけることはできなくなるであろう。いいかえれば彼らは、景色を見る者という立場にあきたらず、その豊かな景色自体の一部になること(*1)を希求するであろう。
 したがって、つぎに彼らは、景色のなかに跳びだすべく、窓の穴をひろげてゆく作業に着手するはずである。それがどのようなものになるのか、今からわたしは楽しみで仕方がない。
 
 
*1 われわれが『微花』をとおして見られる〈開かれてある環〉としての世界に、その一部として実際に生きるには、かの豊かな草花と同水準において〈在る〉必要がある。しかし〈在る〉ということがきわめて現世的地上的な行為(生活!)に支えられるものである以上、そのためには、〈在る〉ものたち全部のただ在ることへの畏怖を維持しながら、特定のものたちを選択し位置づけ利用する力を手に入れなければならない。ここに大きな、のりこえるべき困難があるといえる。