もってこいの日
今朝、外に出てみると、昨夜の大雨が嘘のように、空は青く、空気はいやに乾いて澄んでいる。颱風10号が、この辺一帯のあらゆる湿性のものを連れ去ったらしい。地上の一切のものは洗われて、清潔にきらめいていた。
気温も低い。まるで秋だ。夏も颱風に引っぱられたと見える。夏のいぬ間に、舞台袖に控えていた秋が、ここぞとばかりに踊り出た、といったところか。実際、天下のものはみな、夏のぎらつきをひそめ、あの秋のさびしさを帯びていた。
風もある。颱風は去ったとはいえ、いまだその影響下にあるのだろうか。しかし湿った風ではない。鋭く、乾いて、吹きつける。だから余計に、みんなさびしくなる。
このさびしさはなんだろう。ふと、これはみんながもともと宿しているさびしさではないのか、という気がする。あらゆる存在が、他ならぬ存在することによって持ってしまうさびしさ。そのさびしさが、きょうは剥きだしになって充満している。みんながみんな、さびしさにおいて同期している。
しかしこのさびしさは、暗く湿ったものではない。やはり明るく乾いたものだ。みんな、あっけらかんとしてそれぞれに在るのだ。さびしいのにかわりはないのだけれども。
*
不意に、「…のにもってこいの日」という一語が、強風と一緒に来てぼくをかすめる。どこかで耳にしたか、目にした響きだ。それがなんなのか、思い出せそうで思い出せない。思わずネット検索をかけた。一番上に出てきたのがそれだった。ネイティヴ・アメリカンの言葉を載せた本。
以前この本のことをどこで見たかは忘れた。読んだこともない。でもこの題名はなつかしい。おそらくは、題名だけでぼくはこの本を読んでいた。
ふたたび風がぬけてゆく。まさしくきょうは、死ぬのにもってこいの日だ。それも、遺体を残してしまう死ではなく、風に乗って、透明に飛び散り渡る死。死と呼ぶべきでさえないかもしれない、軽快で開放的な死。
その気になれば、意を決しさえすれば、次の風にでも乗れそうだった。いやむしろ、ここにこうして輪郭をもって立っているという特異な状態のほうを解除するだけで事は足りる。あとは風が、ぼくというものをぼくでないものにすっかり還元してくれるはずだった。
*
まったくきょうという日には、何か特別なものがあった。こういう日はたまにある。こういう、もってこいの日。
きょう、結局ぼくは行かなかった。行けなかった、というのが正確だろう。今はその時ではない。さびしさを焚いて為すべきことが、まだ山ほどある気がするから。
- 作者: ナンシー・ウッド,金関寿夫
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