野性奪還戰線

奈良の大宇陀に移住してきたやつのブログ

里山へ

 考えてみれば、自立した個人にとって同種他個体が必要なのは、再生産のためだけである。個人の生存にとって常時必要なのは、同種ではなくむしろ異種たちの存在である。

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 したがって、個人にとっては異種たちとの関係のほうが桁違いに切実であるはずで、日常的には、異種関係をよりうまく結ぶためだけに同種関係はあるといってもいいくらいなのだ。それが、高度に分業化し、そのため個人の生が幾重にも間接化された社会では、同種関係のほうがより重要だと受けとられるのが慣例となる。

 分業は、個人の生の効率を向上させる。が、分業が高度化することで、本来異種関係に張られるはずの個人の存立の根は、同種関係に張られることになり、それが自明視されるにおよんでは、もはや生の効率化などといった目的は消え失せ、生きることは同種間でうまく立ち回ることでしかなくなる。いきおい、どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く結果となる。

 

 先日、千葉雅也氏のインタビュー記事を読んだのだが、関連すると思われるので紹介する。

corp.netprotections.com

 現状の分析として、グローバル資本主義の激化により「ありとあらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大体の物事はパターンの組み合わせだという見切りがついてしま」い、「文化的な面白さが尽きてしまった」と述べられている。その上で、だからこそ既成のコードに従うのではなく、脱コード化としての「勉強」をとおして新たなコードを創出してゆくことが提案されている。

 納得できなくはないが、そうした先進諸国の人々の直面する閉塞は、上で見た「生の間接化」に端を発しているとわたしには思える。そもそもが間接化された生の上のことであれば、いくら手をかえ品をかえ「面白さ」の変種を発明したところでどれも高が知れているというものだ。

 記事で述べられてあるとおり、文化的未踏地がある(と見られる)段階ならば「脱コード化」し飛びたつこともできようが、あらゆる地点はすでに踏破され、それらのカタログが出揃ったかに見えるとなれば、その手も容易には使えなくなる。残された手札といえば、できあいのコードに黙して従うか、そのコード内で工夫をこらして楽しむか、それでもなお「勉強」によって現行のコードを離陸しあらたなコードを目指すか、といったところになるのだろう。

 だが、ここで肝要なことは、飛翔する以前に、根をおろす先を再考することである。なぜなら、飛翔の「面白さ」が失われる要因は、飛翔によって得られる目新しさの可能性の喪失というよりも、その飛翔先——つまり次なる着陸先が、結局は人間関係というある限定された代償的土壌のどこかでしかないことだ。試みられる文化の「面白さ」が新奇性をその条件にしなければ成り立たないことが、それらが根本的には面白くないことを物語っている。

 このあたりのことについて、真木悠介見田宗介)氏が示唆的なことを述べている。

 われわれの根を存在の中の部分的なもの、局限的なもの(家族、郷村、民族、人類、等々)の中におろそうとするかぎり、根をもつことと翼をもつことは必ずどこかで矛盾する。[略]

 しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。*1

 人間といえども、人間社会を超えて広がる、異種たちの生き交わす大地に支えられるしかない。にもかかわらず、人間が局限されたものとしての人間関係に根をおろしつづけるかぎり、「飛翔する〈翼〉の追求が生活の〈根〉の疎外であり、ささやかな〈根〉への執着が障壁なき〈翼〉の断念であるという、二律背反の地平は超えられない*2」。

 翻っていえば、人間が同種関係という局限的なもの、つまりコードにではなく、異種たちとの関係という全地球的な地平に直接根をおろすならば、その上で人間はどこへも行くことができるし、どこへも行かないこともできる。コードの選択は自在となる。

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 そこでわたしは、現実的な道行きとして「里山に生きること」を提出したい。

 わたしは『つち式 二〇一七』において、里山を「自然の範囲にまで拡張された社会空間であり、人間社会をも含めた自然空間」と定位し、それを「人間と自然の合作」だと書いた*3里山はその性質上、人間社会と自然空間の明確には区切られない中間に位置する。中間といっては狭く聞こえるかもしれないが、日本の森林は国土の約7割を占め、その内の4割が人工林である*4こと、さらに山林に隣接する農地までを里山に含めるならば、里山空間は相当広く人間を取りまいているといえる。

 わたしは普段、里山に生きている。その立場から、里山生活のこの上ない楽しさと希望的可能性とを書きたいのだが、その前に関連する批判を述べることによって逆に里山を浮かび上がらせたい。

 上妻世海氏が、自著『制作へ』についての奥野克巳氏と古谷利裕氏との鼎談のなかで、自然との関係構築の現代的な難しさを以下のように述べている。

軸足を半分、花鳥風月に置くことは、感応的な身体を作る重要な役割を果たすでしょう。ただ、実行は難しい。いまや自然は非常に高価なものになっています。動物園に行っても、外側から一方的に見る消費関係が保管されてしまう。かといって、アフリカや南米に行くことなど、金持ちにしかできない。*5

 たしかに動物園や植物園などでは消費関係しか結べないだろう。たしかにアフリカや南米の自然に出会うには金がかかるだろう。だが、そのように自然は都市内の一部や遥か遠方にしかないわけではない。先進国ニッポンといえども都市部から少し離れればいくらでも自然は充溢しているのである。

 上妻氏はつづけて、「では普通の人たちは、消費し消費される生き方のままでいいのか。といえば、近代化された環境の中でも、身体が開かれる可能性はあるだろうと僕は思うんです」と述べ、身体の活性化の方法として近代の芸術家たちの技術やチェスゲームの応用を挙げている(小さな「差異の感受」や、チェスにおける視点の移動による「四次元」の獲得、等々)。

 たしかに「二十一世紀の現代社会」の少なくとも都市部においては、そうした「技術」は有効なのかもしれない。だが、日頃里山に生きるわたしの立場から見れば、それらはどこまでも代償的な技巧だと言わねばならない。

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 さて、里山である。

 上述したように、里山空間は日本のいたるところにある。くわえて地方の人口減少が問題となる昨今、里山はわたしたちの周囲に余っているとさえいえるだろう。つまり、そうしようとしさえすれば、わたしたちはいつでも里山生活に入ってゆくことができるのである。

 わたしは約四年前から里山に生きている。米・大豆・鶏卵を自給し、文字通り〈生きている〉。わたしは大地に直接根をおろしているので、あらかじめどのような人工的なコードにも影響されない状態にあるし、もちろん逆にどのようなコードを選ぶこともできる。

 稲、大豆、鶏との共生の現場において、彼らは半ばわたしであり、わたしは半ば彼らである*6。またその過程でわたしは多くの他の生き物たちとも、利用し利用される関係として浸透しあっている。すなわち里山において人間は、端的にエクスタシーを生きられるということだ。

 エクスタシーとは無我夢中、忘我の状態であるが、それが自己解体であってはならない。「我を忘れるためには我でなければならない*7」。そのようにしてわたしは、無数の生物たちとの相互越境状態において、里山空間を日々作り出している

 そして、里山里山であるためには、人間の継続的な仕事が不可欠である。里山は、人間社会でもなく自然空間でもなく、またそのどちらでもあるような状態を保たれなければならないが、その均衡を作りだすために人間の仕事は不可欠である。そうした野良仕事はまた、自然との交渉のなかで攻勢と守勢、能動と受動、大胆と慎重、さまざまな態で適宜行われなければならないし、その継続性が要請されるからには人間同士の協働や継承も必要になる。そうした諸々の塩梅の絶妙に決まったとき、里山は美しい。

 それにしても、こうして人間の仕事が残されてあるとは幸いなことではないか!里山では、人間が人間であることが求められているのである。

 わたしは、里山においてこそ、ホモ・サピエンスの本領が発揮されると考えている。里山は、人間をより人間にしてくれるはずである。お望みなら、里山に生きながら近代人であることも、時と場合を違わなければなんら支障はない。里山に根をおろしさえすれば、消費主義でもグローバル資本主義でもなんでもござれだ。それどころか、上で述べたように、むしろ大地に直接することで、人間はより自在に人間関係を、文明をさえ享楽することができるのである。

 そう、だから、わたしはけしかけたい。諸君、里山へ行け。

 

*1:ちくま学芸文庫『気流の鳴る音』172,173頁 強調は筆者

*2:『気流の鳴る音』181頁

*3:『つち式 二〇一七』17,18頁

*4:日本の森林面積と森林率

*5:上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

*6:互いが互いの「延長された表現型」といえる。

*7:『つち式 二〇一七』51頁

農耕実存所信表明二〇一八

 今年の稲こぎをおえ、大豆の収穫・乾燥の時期にさしかかったこの頃、来年以降の動きについて考えることが多くなってきた。

 これからの展開として、①綿花栽培からの衣服自給にくわえ、②棚田のまわり、殊に棚田の用水としての沢の上流の杉林を雑木林に変えていきたいと思っている。山の麓で山水を用いて稲作をする以上、上流の森林環境の改善維持はほんとうには切り離しがたいことであるはずだ。

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 具体的な理由は、第一に山水の安定供給および含有養分の増加のため、第二に周辺環境の生物多様性恢復のため、また昨今の気候変動にともなう大雨時の沢の氾濫予防および山崩れ予防のためだ。現在、棚田のまわりの森は過去の植林によってスギばかりが植わっており、稲作を続けていくからには一刻も早く手を打たなければならないと思っている。

 これまでは、稲作のなかの稲を栽培するという点にのみ、力及ばず専念せざるをえなかった。だが稲作という営みは本来、周辺環境に支えられる事柄である以上、田んぼでだけでは済まないものであり、もっと広域において捉えるべきものである。だいたい、里山という概念と実際空間とを重視する立場を表明する身として*1、これは当然のなりゆきであり、当然着手すべき事柄であろう。

 そこでだ、きわめて長期的な計画になると思われるが、山のスギを伐っていき、それらを使って何らかの建造物を作りたい*2。なお、スギを伐ったあとにはドングリをばらまいておく算段だ。

 稲作をしながらであるので、この計画は冬期にしか進められないだろう。一切金にはならないだろう。むしろ金銭的にはマイナスにしかならないだろう。しかも、山の植生を雑木に転換したからといって、実益を得るのは下流で田んぼをするわたしだけである。 その上で、スギ林伐採および何らかの建造物建設に協力してくれる人がいればうれしい。

 少子高齢化、人口減少、経済不振、災害の頻発、食料自給率の低下、林野の荒廃、チンケで狭隘なナショナリズムの台頭、権威への自発的隷従傾向、謎の縄文ブーム、等々、我々をとりまく社会状況は絶望的かに思われる。このままでいいのか。今再び農耕民の本領を発揮すべき時ではないのか。

 というのはまあ冗談だが、それでも、ここらで一発、というか一生やっていきたいと思う。視点や観念上の転換ではなく、実際的根本的それゆえ漸進的かつ全身的な土の上の問答無用の農耕実存マルチスピーシーズ生活実践として!

 

*1:つち式 二〇一七』「至福の反復としての里山生活」参照

*2:山の所有権は分割されており、まずは持ち主との交渉から進めていかなければならない

愛され上手の生存戦略

 棚田の土手にリンドウが増えてきた。よろこばしいことだ。

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 この放棄されていた田んぼをやりだした二、三年前には、リンドウは数株しか残存していなかった。それまでは年にせいぜい二回ほどしか草刈りが行われておらず、いきおい全体的に草丈が高く、リンドウにとっては不利な状態であったのだろう。それが今、わたしが稲作のかたわらよく土手の草を刈るので*1、リンドウにとって好ましい環境になっているのではないかと考えている。

 尤も、彼らをよけて草刈りをするのは面倒ではある。しかしリンドウの花には、ほかの草と一緒くたに刈り払ってしまうには惜しいと感じさせる何かがある。花期、特別の注意を払ってわたしは刈払機を用いるし、誤って刈り落としてしまったときには、やってしまったとひどく無念に思うほどだ。

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 べつにリンドウがあることはわたしにとってなんの実益にもならないわけだが、その可憐な青紫色の花の存在が自分の行いに懸かっていると考えられることで、わたしの庇護欲はくすぐられる。実用性は皆無であるにもかかわらず*2、わたしからこれほどの寵愛をうける植物も珍しい。リンちゃんたちは、その清冽で奥ゆかしい花弁をもって視覚的に誘惑し、わたしの行動を思いのまま操ることに成功しているのだ。わたしはわたしの棚田において、リンドウの遺伝子の「延長された表現型」であると捉えることもできる。もはやわたしはいくらかリンドウなのである。

 リンドウは、人間の野良仕事を利用して勢力を拡大してきたといってもいいだろう。翻って、リンドウの咲きみだれてあることは、人間の仕事の行き届いていることを示す。リンドウの存在自体が、わたしにとって日頃の仕事への評価であり、また褒美である。

 愛され上手は、たとえ相手が自分は利用されていると気づいたとしても、むしろ一段と利用されようとするように仕向ける。最初わたしは知らず知らずのうちに手を貸していたのだが、彼らの増加を知って以来よりこまめに土手の草を刈っている。まんまとリンドウの術中にはまっているのだ。けだし、惚れたほうの負けである。

 

*1:田に影を作らないため、刈り草を肥料にするため、等々の理由がある

*2:根は薬になるらしいが、今のわたしにとっては意味のないことだ。

奥野克巳さんからの熱烈なご紹介について

 先日、光栄にも人類学者の奥野克巳さんに『つち式』をご紹介いただいた。

 奥野克巳さんといえば、先ごろ出版された『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』でも有名な気鋭の人類学者である。今回、思いがけず取り上げていただけたことは、まさに棚から牡丹餅というべき事態であり、その好運に自分でも驚いているところだ*1
 引用したツイートにある「マルチスピーシーズ」とは、人類学のあらたな潮流のキーワードである。その名も「マルチスピーシーズ人類学」が主題とするのは、人類という単一種だけでなく、人類と人類でない異種たちの関係の生き生きと重畳する世界だといってよいだろう。奇しくもそれは、雑誌『つち式』の主題と大きく重なっていたのだった。
 そして奥野さんは、日本のマルチスピーシーズ人類学の牽引者のお一人である。つまり今回、人類学と『つち式』とは、別個の経路を辿ってきて同じ地点で邂逅したのだ。
 わたしのこれまでの道行きの途上に、多くの共感者がいたとはいえない。わたしはその道の大半を一人で歩いてきた*2し、『つち式』も数少ない仲間と制作したのだった。しかし今考えれば、本誌創刊はある意味最後の一歩であったのだ。からくもその一歩を踏み出した地点には、人類学の太い道が交差していた。
 今、細い道から一気にひらけた場所に踏み入って、わたしは大変にうれしくありながら、少々動揺してもいる。そこではさかんに人々がゆきかっており、その光景は、これまでのことを思うと俄かに信じがたいのだ。この僥倖に早く慣れたい。

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 上に引いた奥野さんの熱烈な紹介ツイートに接して、マルチスピーシーズ人類学への興味に駆られたわたしは、奥野さんたちのシンポジウムに出席するべく、熊本に行くことにした。
 そう意気込んでいたところに、折しも奥野さんからお電話をいただいて、話は盛り上がり、なんとシンポジウム前日にトークイベントをしようということになったのだ。
 長崎書店さんのご協力にも恵まれ、あれよあれよという間に話は進み、奥野さんのお誘いによって同じく人類学者の石倉敏明さんにもご登壇いただける運びとなり、『つち式』をめぐる鼎談の開催に漕ぎつけたという次第である。
 
 今回の一連の「事件」には心底驚かされた。こうした種類の歓びには慣れていないからうまく言葉にできない。
 ともかく、それもこれも『つち式』を作っていなければありえなかった話である。創刊して本当によかったと思う。
 奥野さん、ありがとうございます。
 

*1:奥野さんのツイート後、ネットショップにおいてこれまでにないほどの売上げが見られた。

*2:異種たちとともにではあるが!

鼎談イベント予告

雑誌『つち式』創刊記念トークイベント

「生命の〈からまりあい〉に生きる」
来たるべきマルチスピーシーズ的未来のために

東千茅×奥野克巳×石倉敏明

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12月7日(金)
19:00〜20:45(開場18:30)
参加費 1,000円
於 長崎書店3階 リトルスターホール
熊本県熊本市中央区上通町6−23)
https://www.nagasakishoten.jp/hall/

ご予約先:
つち式 東千茅
omusubiradio@gmail.com
(件名を「トークイベント申し込み」とし、代表者氏名・人数・電話番号をお知らせください)


人間と異種との関係が、いま注目されている。
無数の生き物たちが複雑にからまりあい目もあやに織りなす生態系に、生活をとおして合流しようとする雑誌『つち式』の試みは、人類学のあらたな潮流「マルチスピーシーズ」思想と期せずして交差した。
マルチスピーシーズ人類学を牽引する奥野克巳さんと石倉敏明さんをお迎えし、異種関係から生じる相乗的ダイナミズムや我が国の農耕文化について語り合いたい。

●『つち式』とは
「生きる」という、今や比喩表現でしかないこの営みを、あくまで現実的に根柢から生き直そうとする試み。異種生物たちを利用し、異種生物たちに利用されながら成り立つ人間の生の本然を、より生きるための「ライフマガジン」
https://tsuchishiki.thebase.in/items/11864278

■マルチスピーシーズ人類学
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/katsumiokuno/multi-species-workshop.html

 

登壇者プロフィール:
◆東千茅(あづま ちがや)
https://twitter.com/shhazm
1991年大阪府生まれ。雑誌『つち式』主宰。2015年、大阪から奈良県宇陀市へ移住。家庭教師などをして最低限の収入を得ながら、日々の大半を稲作や養鶏などの自給仕事に費やしている。

◆奥野克巳(おくの かつみ)
https://twitter.com/berayung
立教大学異文化コミュニケーション学部教授。主な著作『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(2018、亜紀書房)、『「精霊の仕業」と「人の仕業」』(2004、春風社)、訳書に『森は考える』(E.コーン著、2016、亜紀書房)『ソウル・ハンターズ』(R.ウィラースレフ著、2010、亜紀書房)。

◆石倉敏明(いしくら としあき
https://twitter.com/julunggul
秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻、大学院複合芸術専攻准教授。明治大学野生の科学研究所研究員。共著に『Lexicon 現代人類学』(奥野克巳共編、2018、以文社)、『どうぶつのことば 根源的暴力を超えて』(鴻池朋子共著、2016、羽鳥書店)、『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(田附勝共著、2015、淡交社)など。

当日会場にて、登壇者の著作を販売いたします。

トークイベントのあとがき2

 去る九月廿二日、鳥取県湯梨浜町は東郷湖にのぞむ汽水空港さんにてトークイベントの機会を得た。『つち式』の単独イベントとしては二回目である (一回目は大阪豊中blackbird booksさんにて) 。

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 前回は大阪という都会で行ったが、今回は地方ということもあって、土が身近にある環境のためか、お客さんと『つち式』の距離も近いように感じた。トーク後にはとても具体的実際的な質問が相次いで、そのことが土との関係の切実さをより印象づけた。わたしの喋りは一向に上達しないものの、多くを汲み取っていただけた気がするのは、そうした環境によるところも大きいのではないかと思う。
 汽水空港の店主、森さんからは、「全体的に生きていきたい、という気持ちをうまく言葉に表せている本」「ただ生きていくことの楽しさを書いている」と評していただき、伝えたいことがまっすぐに伝わったうれしさを今も噛みしめているところだ。
 
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トークの音声はおむすびラジオにて配信中
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 わたしが『つち式』で示したかったのは至極単純なことである。生きるという営みそれ自体が、いかに悦びに充ちたものであるか、比喩ではなく文字どおり地に足をつけた生活(生存活動!)が、本来いかに楽しいものであるか、ということだ。
 生の本来的愉悦は野良仕事を前提している。そして野良仕事にあたっては、柔と剛、慎重と大胆、能動と受動、それらを時と場合によって使いわける必要がある。つまり、あらかじめ一つの姿勢を固定して臨んでは、さまざまな顔を持つ生の悦びを全体的に味わうことができないということである。
 だから『つち式』には、そうした生のさまざまな面を、どれか一つに限るのではなく総合的に盛り込んだつもりだ。わたしたち制作陣が『つち式』のことを、一般的な意味からはやや逸脱するにもかかわらず「雑誌」と呼びならわす所以でもある。生きるうえでの本来的な雑多性を書き記したもの、として。
 
 今回の汽水空港でのトークイベントでは、この辺のことがスッと通じたという感触がある。仙人でもヒッピーでも専業農家でも何でもない人間が、ただただ楽しく〈生きよう〉としているだけの、分類しようのない雑誌としての『つち式』を、そのまま素直に受け取ってもらえた気がした。
 
 ✳︎
 
 汽水空港の森さん、トークイベントに来てくださった皆さん、ほんとうにありがとうございました。
 また遊びにいきますね。 
 

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見田宗介さんからの祝辞について

 先日、なんとあの社会学会の大御所、見田宗介さんから『つち式』に祝辞をいただいた。

一足早い高原の祝福の日々に乾杯!

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 見田さんの著作には、日々を生きるうえでも、『つち式』を書くうえでも大変に励まされ、助けられている。そんな見田さんから祝福されて、わたしは欣喜雀躍した。
 写真は、うれしさのあまり作成した栞である。オモテ面に祝辞を、ウラ面にニクオスの雄叫びシーンをあしらった。おそらく誰も気づいてくれないので言うが、これは表裏で「高原/光源の到来を告げる声」が表されており、「コウゲン」の言葉あそびが隠されている。
 
 さて、見田さんの言う〈高原〉とは、人間が文明の成果の高みを保持したまま、これ以上の「成長」を不要のものとして完了し、どんな搾取も汚染も破壊も必要のない、身近な人たちとの交歓や自然と身体との交感といった〈単純な至福〉を享受しつづける、来たるべき時代局面のことだ。
 くわしくは見田さんの著作を参照してもらいたいが、最新著『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)から引用して紹介する。

 幾千年の民衆が希求してきた幸福の究極の像としての「天国」や「極楽」は、未来のための現在ではなく、永続する現在の享受であった。天国に経済成長はない。「天国」や「極楽」という幻想が実現することはない。天国や極楽という幻想に仮託して人びとの無意識が希求してきた、永続する現在の生の輝きを享受するという高原が、実現する。
 けれどもそれは、生産と分配と流通と消費の新しい安定平衡的なシステムの確立と、個人と個人、集団と集団、社会と社会、人間と自然との間の、自由に交響し互酬する関係の重層する世界の展開と、そして何よりも、存在するものの輝きと存在することの至福を感受する力の解放という、幾層もの現実的な課題の克服をわれわれに要求している。
 この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に充ちた困難な過渡期の転回を共に生きる経験が「現代」である。(17,18頁)
 ということで、畏れおおくも、「一足早い高原」として『つち式』を言祝いでいただいたのである。
 

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 わたしは『つち式 二〇一七』を書くとき、見田さんの著作の存在を終始うしろ盾のように感じていた。いわば、つち式という建築の骨格の太い支柱として、また、〈生きる〉ことが本来それ自体限りない恍惚の連続であるという確信の揺るぎない裏付けとして。
 
 『自我の起原』(真木悠介名義)からは引用もしている。
 われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の色彩、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
 Ecstacyは、個の「魂」が(あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が)、このように個の身体の外部にさまよい出るということ、脱・個体化されてあるということである。真木悠介『自我の起原』岩波書店 第8刷 145頁

f:id:shhazm:20180914182940j:plain (『つち式 二〇一七』「米、大豆、鶏卵(、大麦)」51頁)


 さらに『自我の起原』からは、初版あとがき最後の段落の一節に習い、もじって、『つち式』のあとがき風の記事の末尾を結んだ。

f:id:shhazm:20180914183014j:plain(『自我の起原』 197頁)

 この、不可解にして、困難にして、甘美な生を、十全に生きてゆこうとする意志が、各所で芽吹きつつあると信じる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものが、まっすぐに語り交わされはじめた(そして同時に為し交わされはじめた)時代を生きる世代たちの内に、今しも萌そうとする青青とした意志の芽を賦活することだけを願って、わたしはこのライフマガジンを世界の内に放ちたい。(『つち式 二〇一七』「十全に生きるために」102頁)

 見田さんが「逆風の中」に播かれた種子の一つの芽として、各所で萌しているであろう他の芽たちに向かって呼びかわすつもりで、わたしは『つち式』を書いた。その声を後押ししてくれる追い風のような声、誰あろう見田さんご本人からの祝福の声が届いたのだ。
 一介の自費出版雑誌には過分な栄誉だが、一層誇りをもって「高原の祝福の日々」をおくっていきたいと思う。