刈払機礼讃

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 あたたかくなって、草がよく生えるようになってきた。ここ最近は刈払機を振りまわす日々だ。家のまわり、田んぼの土手、近所の人に頼まれたところ――いくらでもある。

 *

 刈払機のエンヂンを始動する時が好きだ。チョークを閉め、プライマリーポンプを数回押して燃料を送りこみ、リコイルスターターを引っぱってエンヂンをかける。すみやかに高まる爆音が仮借ない暴力を予告する。胸が共鳴して高鳴る。
 ハンドルを持つ。その重量が雄弁に〈力〉を物語る。エンヂンの振動が手に伝わり、いきおいわたしの脈拍も速まる。スロットルレバーで回転数を上げ、草の根元に刃をすべらせる。よく研いだ刈刃の滑らかな切れ味。為す術なくむざむざと切り裂かれる草たち。征服の左右運動。小気味よい殺戮のしらべ。
 しばらく刈ってから後ろを振り向くのも好きだ。そこには征服済みの野辺が広がる。刈っている最中は一振り一振りに集中しているのだが、その虐殺の積み重ねが広域の領土を完成させる。刈られた草たちは皆だらしなくひれ伏している。地表の断面の集合は、領土にかしずく従順な民草の顔を見せる。
 ところが、夏場はひと月もすれば草丈は元通りになる。さしずめ領土全域における度重なる武装蜂起である。それでこそ張合いがあるというものだ。わたしは民草の反乱を許容する。それどころか、推奨しさえする。里山の王たるわたしは、そのつど圧倒的な武力をもって騒擾を平らげるのである。

 *

 刈払機のハンドルの形状には幾つかある。一般的な両手ハンドル、自由度の高いといわれるループハンドルとツーグリップハンドルの三種類だ(http://www.agriz.net/servicect/index.html/2017/02/07/handle/)。
 この内わたしは両手ハンドルの刈払機を好んで用いている。
 上記のように、ふつうはループとツーグリップのほうが自由度が高いとされているが、それは、両手ハンドルのものに肩掛けベルトを付けるために生じる不自由から見た相対的自由にすぎない。ベルトをしなければ両手ハンドルであっても自在である。しかも、両手ハンドルは左右に力を入れやすく平面を刈るのにうってつけであるばかりか、持ち方を変えれば実は斜面でも刈りやすいのだ。

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 刈刃は左回転なので、基本姿勢は刈払機を体の右側に構えることになる。このようにして平面は刈る。わたしは肩掛けベルトを付けないので、右脚をすこし曲げ、両手と脚の付け根の三点で支える。

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 斜面を刈る際には、可動域を広くするために体の左側に構え、左手で柄を持つ。このようにすれば両手ハンドルでも斜面を刈りやすいうえに、右手で下方向への力も加えやすい。
 総合するに、里山では両手ハンドルの刈払機が最も優れているといえるのである。

 *

 サン=テグジュペリの時代の飛行機とおなじく、刈払機は道具として傑作だと思う。作業効率を格段に向上させると同時に、使用者に労役を要求するからである。便利になることはよいことであるが、便利になりすぎ苦労がなくなりすぎては、人工の愉しみが失われてしまう。刈払機はその点、絶妙な塩梅の発明品なのである。(この観点からいえば、電動丸ノコ、チェーンソー、インパクトドライバーなども同様にすばらしい。)
 その暴力性も称えておくべきだろう。刈払機はその名のとおり、草たちを刈り払うためにある。殺戮するためにある。その力量は、手鎌とは比べものにならない。刈払機を装着することで、人間は身体を延長し、暴力を増幅して解放できるのである。
 エンヂンの騒々しさもいい。耳を聾するその爆音は、有無をいわせぬ物騒な力の副産物だ。これが無音では征服の愉悦も半減してしまうだろう。
 振動と爆音の余波は、作業後も身体にしばらく残る。それは、征服を裏づける甘美な残響なのだ。

 縷々述べたが、征服の反復たる里山生活に刈払機は欠かせないということだ。刈払機は何もかもがいい。刈払機万歳。発明者が誰かは知らないが、わたしは彼を讃えたい。刈払機あってこそ、わたしは征服者としてこの里山に君臨できているのだから。

征服の反復としての里山生活

 冬のわが棚田である。長閑な景色に見えるだろうか。

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 だが、里山のなかでも特に棚田は、とても長閑とはいえない汗と力の産物である。山に階梯を刻みつける最初の造成はもとより、その維持にも不断の労力の発揮が不可欠なのだ。悠長に眺めつづけていては山になる。
 里山の景色を長閑だと感じるのは、人間が征服済みの景色だからだ。しかし、すぐにまた反乱は起こってくる。人間が負ければ、鬱蒼とした景色になる。それを長閑だとは思わないだろう。
 
 里山は、人間と自然との戦闘地帯だといってもいいくらいだ。熾烈な争いが日夜繰り返されているのである。
 だから、定年後の人や都会に疲れた人ではなく、若くて力のある人に里山は向いている。この辺のことがあまり理解されず、里山がある種の保養所や避難所のように考えられていることに、わたしは苦々しい思いをいだいている。
 いつかは里山生活をしたいと思ってる人は一刻も早く行ったほうがよい。戦闘こと里山生活は、体力がなくなってからではあまり楽しめないだろう。くりかえす、里山生活は戦いなのだ。
 
 先日、人間の手が入らなくなって鬱蒼とした長閑ではない土地を、再び里山として取り戻そうとしている人と知り合った。以下は、その人の手伝いをすることを決めた日のツイートのまとめである。
 きょう、農業で独立しようとしてる人に候補地を見せてもらった。そのうち一つは見事にササやアワダチソウの生い茂る耕作放棄地だった。手伝いを二つ返事で承諾した。一目見て、刈払機で暴れまわりたいと思ったのだ。完膚なきまでに征服してやる、と。
 一回目の草刈りは、刈るというより殴るに近いものになるだろう。エンヂンをガンガンに噴かしてズタズタにしてやる。胸が高鳴る。血が騒ぐ。人間に生まれてよかった!我が物顔で濫立するあいつらをこの手で叩き切るのが楽しみで仕方がない。殺す。絶対殺す。里山万歳。
 嗚呼、血湧き肉躍るとはこういうことをいうのだな。あゝ草大好き。刈っても刈っても生えてきてくれるのだ。俺にくりかえし征服されるために!毎年毎年バカみたいに生えてこい。毎年毎年バカみたいに刈ってやる。共生の愉悦!
 何かを征服せんとする暴力の行使にともなう悦びは否定しがたい。われわれの身体には最初から〈力〉が準備されているのである。
 無論、征服の対象は選ばなければならない。殊に人間が人間を征服する行為は、今や断罪されてしかるべきであるし、そのような愚かな征服者をわたしは同類と認めない。
 だが、だからといってあらゆる征服の悦びを捨て去る必要はどこにもない。力の行使に愉悦はともなわないなどと言う向きがもしあれば、わたしは彼を嘘吐きめと罵るだろう。
  里山はその点、人間による征服をむしろ前提しているから、頗るやりやすい。わたしは求められ、かつ、自ら望んで、おもうさま力を揮うことができるのである。
 
 以前、「至福の反復としての里山生活」という記事で、〈人工の愉悦〉と〈共生の愉悦〉をくりかえし両得できるという点で里山生活は至福の反復だと書いた。『つち式 二〇一七』にも加筆修正して同名記事を掲載している。

yaseikaifuku.hatenablog.com

  今回わたしのいう征服とは、〈人工/共生〉のうち人工に傾いたものだというべきだろう。
 なぜふたたびこうして里山生活について書くのかというと、上の記事では、里山には二つの愉悦があるという原理的なことを言いたかったために、ある意味では征服(人工)の悦びについて記述しきれていないと思ったからだ。有り体にいえば、少々きれいに書きすぎていると思ったからだ。

 いかにも、征服の際のわたしは攻撃的である。草刈りなら、目の前の草どもに人間の力を思い知らせてやるという一心で、共生などということは意識しない。というより、皆殺しにしてやると思っているくらいだ。
 しかし考えてみれば、それも自然の再生することが念頭にあるからだろう。だから征服の方法は選んでいる。
 草を征服するといっても、たとえば畦をコンクリートで塗り固めてしまっては、草は再生しないし、征服の愉しみが長年にわたり失われてしまう。そうした征服方法をとるのは全くもって寡欲的なつまらない者であり、征服者の風上にもおけない。真の征服者たる者は、何度も何度も征服の愉悦に酔いしれることを望むはずである。
 つまり、共生の悦びはいうまでもなく、征服の悦びをくりかえし味わうためにも、反乱の余地を残す仕方で力を揮うことが肝要である。なにもそれは力を抑えることではない。共生可能的な方法の中であらん限りの力をもって征服するということである。そのたびに人間は遺憾なく力を放出する悦びを享受しながら、その結果として異種共生の悦びをも享受することができるのである。

 

里山へ

 考えてみれば、自立した個人にとって同種他個体が必要なのは、再生産のためだけである。個人の生存にとって常時必要なのは、同種ではなくむしろ異種たちの存在である。

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 したがって、個人にとっては異種たちとの関係のほうが桁違いに切実であるはずで、日常的には、異種関係をよりうまく結ぶためだけに同種関係はあるといってもいいくらいなのだ。それが、高度に分業化し、そのため個人の生が幾重にも間接化された社会では、同種関係のほうがより重要だと受けとられるのが慣例となる。

 分業は、個人の生の効率を向上させる。が、分業が高度化することで、本来異種関係に張られるはずの個人の存立の根は、同種関係に張られることになり、それが自明視されるにおよんでは、もはや生の効率化などといった目的は消え失せ、生きることは同種間でうまく立ち回ることでしかなくなる。いきおい、どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く結果となる。

 

 先日、千葉雅也氏のインタビュー記事を読んだのだが、関連すると思われるので紹介する。

corp.netprotections.com

 現状の分析として、グローバル資本主義の激化により「ありとあらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大体の物事はパターンの組み合わせだという見切りがついてしま」い、「文化的な面白さが尽きてしまった」と述べられている。その上で、だからこそ既成のコードに従うのではなく、脱コード化としての「勉強」をとおして新たなコードを創出してゆくことが提案されている。

 納得できなくはないが、そうした先進諸国の人々の直面する閉塞は、上で見た「生の間接化」に端を発しているとわたしには思える。そもそもが間接化された生の上のことであれば、いくら手をかえ品をかえ「面白さ」の変種を発明したところでどれも高が知れているというものだ。

 記事で述べられてあるとおり、文化的未踏地がある(と見られる)段階ならば「脱コード化」し飛びたつこともできようが、あらゆる地点はすでに踏破され、それらのカタログが出揃ったかに見えるとなれば、その手も容易には使えなくなる。残された手札といえば、できあいのコードに黙して従うか、そのコード内で工夫をこらして楽しむか、それでもなお「勉強」によって現行のコードを離陸しあらたなコードを目指すか、といったところになるのだろう。

 だが、ここで肝要なことは、飛翔する以前に、根をおろす先を再考することである。なぜなら、飛翔の「面白さ」が失われる要因は、飛翔によって得られる目新しさの可能性の喪失というよりも、その飛翔先——つまり次なる着陸先が、結局は人間関係というある限定された代償的土壌のどこかでしかないことだ。試みられる文化の「面白さ」が新奇性をその条件にしなければ成り立たないことが、それらが根本的には面白くないことを物語っている。

 このあたりのことについて、真木悠介見田宗介)氏が示唆的なことを述べている。

 われわれの根を存在の中の部分的なもの、局限的なもの(家族、郷村、民族、人類、等々)の中におろそうとするかぎり、根をもつことと翼をもつことは必ずどこかで矛盾する。[略]

 しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。*1

 人間といえども、人間社会を超えて広がる、異種たちの生き交わす大地に支えられるしかない。にもかかわらず、人間が局限されたものとしての人間関係に根をおろしつづけるかぎり、「飛翔する〈翼〉の追求が生活の〈根〉の疎外であり、ささやかな〈根〉への執着が障壁なき〈翼〉の断念であるという、二律背反の地平は超えられない*2」。

 翻っていえば、人間が同種関係という局限的なもの、つまりコードにではなく、異種たちとの関係という全地球的な地平に直接根をおろすならば、その上で人間はどこへも行くことができるし、どこへも行かないこともできる。コードの選択は自在となる。

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 そこでわたしは、現実的な道行きとして「里山に生きること」を提出したい。

 わたしは『つち式 二〇一七』において、里山を「自然の範囲にまで拡張された社会空間であり、人間社会をも含めた自然空間」と定位し、それを「人間と自然の合作」だと書いた*3里山はその性質上、人間社会と自然空間の明確には区切られない中間に位置する。中間といっては狭く聞こえるかもしれないが、日本の森林は国土の約7割を占め、その内の4割が人工林である*4こと、さらに山林に隣接する農地までを里山に含めるならば、里山空間は相当広く人間を取りまいているといえる。

 わたしは普段、里山に生きている。その立場から、里山生活のこの上ない楽しさと希望的可能性とを書きたいのだが、その前に関連する批判を述べることによって逆に里山を浮かび上がらせたい。

 上妻世海氏が、自著『制作へ』についての奥野克巳氏と古谷利裕氏との鼎談のなかで、自然との関係構築の現代的な難しさを以下のように述べている。

軸足を半分、花鳥風月に置くことは、感応的な身体を作る重要な役割を果たすでしょう。ただ、実行は難しい。いまや自然は非常に高価なものになっています。動物園に行っても、外側から一方的に見る消費関係が保管されてしまう。かといって、アフリカや南米に行くことなど、金持ちにしかできない。*5

 たしかに動物園や植物園などでは消費関係しか結べないだろう。たしかにアフリカや南米の自然に出会うには金がかかるだろう。だが、そのように自然は都市内の一部や遥か遠方にしかないわけではない。先進国ニッポンといえども都市部から少し離れればいくらでも自然は充溢しているのである。

 上妻氏はつづけて、「では普通の人たちは、消費し消費される生き方のままでいいのか。といえば、近代化された環境の中でも、身体が開かれる可能性はあるだろうと僕は思うんです」と述べ、身体の活性化の方法として近代の芸術家たちの技術やチェスゲームの応用を挙げている(小さな「差異の感受」や、チェスにおける視点の移動による「四次元」の獲得、等々)。

 たしかに「二十一世紀の現代社会」の少なくとも都市部においては、そうした「技術」は有効なのかもしれない。だが、日頃里山に生きるわたしの立場から見れば、それらはどこまでも代償的な技巧だと言わねばならない。

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 さて、里山である。

 上述したように、里山空間は日本のいたるところにある。くわえて地方の人口減少が問題となる昨今、里山はわたしたちの周囲に余っているとさえいえるだろう。つまり、そうしようとしさえすれば、わたしたちはいつでも里山生活に入ってゆくことができるのである。

 わたしは約四年前から里山に生きている。米・大豆・鶏卵を自給し、比喩ではなく文字通り生きている。わたしは大地に直接根をおろしているので、あらかじめどのような人工的なコードにも影響されない状態にあるし、もちろん逆にどのようなコードを選ぶこともできる。

 稲、大豆、鶏との共生の現場において、彼らは半ばわたしであり、わたしは半ば彼らである*6。またその過程でわたしは多くの他の生き物たちとも、利用し利用される関係として浸透しあっている。すなわち里山において人間は、非常にわかりやすくエクスタシーを生きられるということだ。

 エクスタシーとは無我夢中、忘我の状態であるが、それが自己解体であってはならない。「我を忘れるためには我でなければならない*7」。そのようにしてわたしは、無数の生物たちとの相互越境状態において、里山空間を日々作り出している

 そして、里山里山であるためには、人間の継続的な仕事が不可欠である。里山は、人間社会でもなく自然空間でもなく、またそのどちらでもあるような状態を保たれなければならないが、その均衡を作りだすために人間の仕事は不可欠である。そうした野良仕事はまた、自然との交渉のなかで攻勢と守勢、能動と受動、大胆と慎重、さまざまな態で適宜行われなければならないし、その継続性が要請されるからには人間同士の協働や継承も必要になる。そうした諸々の塩梅の絶妙に決まったとき、里山は目に見えて美しい。

 それにしても、こうして人間の仕事が残されてあるとは幸いなことではないか!里山では、人間が人間であることが求められているのである。

 わたしは、里山においてこそ、ホモ・サピエンスの本領が発揮されると考えている。里山は、人間をより人間にしてくれるはずである。お望みなら、里山に生きながら近代人であることも、時と場合を違わなければなんら支障はない。里山に根をおろしさえすれば、消費主義でもグローバル資本主義でもなんでもござれだ。それどころか、上で述べたように、むしろ大地に直接することで、人間はより自在に人間関係を、文明をさえ享楽することができるのである。

 そう、だから、わたしはけしかけたい。諸君、里山へ行け。

 

*1:ちくま学芸文庫『気流の鳴る音』172,173頁 強調は筆者

*2:『気流の鳴る音』181頁

*3:『つち式 二〇一七』17,18頁

*4:日本の森林面積と森林率

*5:上妻世海×奥野克巳×古谷利裕 別の身体を、新しい「制作」を 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

*6:互いが互いの「延長された表現型」といえる。

*7:『つち式 二〇一七』51頁

農耕実存所信表明二〇一八

 今年の稲こぎをおえ、大豆の収穫・乾燥の時期にさしかかったこの頃、来年以降の動きについて考えることが多くなってきた。

 これからの展開として、①綿花栽培からの衣服自給にくわえ、②棚田のまわり、殊に棚田の用水としての沢の上流の杉林を雑木林に変えていきたいと思っている。山の麓で山水を用いて稲作をする以上、上流の森林環境の改善維持はほんとうには切り離しがたいことであるはずだ。

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 具体的な理由は、第一に山水の安定供給および含有養分の増加のため、第二に周辺環境の生物多様性恢復のため、また昨今の気候変動にともなう大雨時の沢の氾濫予防および山崩れ予防のためだ。現在、棚田のまわりの森は過去の植林によってスギばかりが植わっており、稲作を続けていくからには一刻も早く手を打たなければならないと思っている。

 これまでは、稲作のなかの稲を栽培するという点にのみ、力及ばず専念せざるをえなかった。だが稲作という営みは本来、周辺環境に支えられる事柄である以上、田んぼでだけでは済まないものであり、もっと広域において捉えるべきものである。だいたい、里山という概念と実際空間とを重視する立場を表明する身として*1、これは当然のなりゆきであり、当然着手すべき事柄であろう。

 そこでだ、きわめて長期的な計画になると思われるが、山のスギを伐っていき、それらを使って何らかの建造物を作りたい*2。なお、スギを伐ったあとにはドングリをばらまいておく算段だ。

 稲作をしながらであるので、この計画は冬期にしか進められないだろう。一切金にはならないだろう。むしろ金銭的にはマイナスにしかならないだろう。しかも、山の植生を雑木に転換したからといって、実益を得るのは下流で田んぼをするわたしだけである。 その上で、スギ林伐採および何らかの建造物建設に協力してくれる人がいればうれしい。

 少子高齢化、人口減少、経済不振、災害の頻発、食料自給率の低下、林野の荒廃、チンケで狭隘なナショナリズムの台頭、権威への自発的隷従傾向、謎の縄文ブーム、等々、我々をとりまく社会状況は絶望的かに思われる。このままでいいのか。今再び農耕民の本領を発揮すべき時ではないのか。

 というのはまあ冗談だが、それでも、ここらで一発、というか一生やっていきたいと思う。視点や観念上の転換ではなく、実際的根本的それゆえ漸進的かつ全身的な土の上の問答無用の農耕実存マルチスピーシーズ生活実践として!

 

*1:つち式 二〇一七』「至福の反復としての里山生活」参照

*2:山の所有権は分割されており、まずは持ち主との交渉から進めていかなければならない

愛され上手の生存戦略

 棚田の土手にリンドウが増えてきた。よろこばしいことだ。

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 この放棄されていた田んぼをやりだした二、三年前には、リンドウは数株しか残存していなかった。それまでは年にせいぜい二回ほどしか草刈りが行われておらず、いきおい全体的に草丈が高く、リンドウにとっては不利な状態であったのだろう。それが今、わたしが稲作のかたわらよく土手の草を刈るので*1、リンドウにとって好ましい環境になっているのではないかと考えている。

 尤も、彼らをよけて草刈りをするのは面倒ではある。しかしリンドウの花には、ほかの草と一緒くたに刈り払ってしまうには惜しいと感じさせる何かがある。花期、特別の注意を払ってわたしは刈払機を用いるし、誤って刈り落としてしまったときには、やってしまったとひどく無念に思うほどだ。

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 べつにリンドウがあることはわたしにとってなんの実益にもならないわけだが、その可憐な青紫色の花の存在が自分の行いに懸かっていると考えられることで、わたしの庇護欲はくすぐられる。実用性は皆無であるにもかかわらず*2、わたしからこれほどの寵愛をうける植物も珍しい。リンちゃんたちは、その清冽で奥ゆかしい花弁をもって視覚的に誘惑し、わたしの行動を思いのまま操ることに成功しているのだ。わたしはわたしの棚田において、リンドウの遺伝子の「延長された表現型」であると捉えることもできる。もはやわたしはいくらかリンドウなのである。

 リンドウは、人間の野良仕事を利用して勢力を拡大してきたといってもいいだろう。翻って、リンドウの咲きみだれてあることは、人間の仕事の行き届いていることを示す。リンドウの存在自体が、わたしにとって日頃の仕事への評価であり、また褒美である。

 愛され上手は、たとえ相手が自分は利用されていると気づいたとしても、むしろ一段と利用されようとするように仕向ける。最初わたしは知らず知らずのうちに手を貸していたのだが、彼らの増加を知って以来よりこまめに土手の草を刈っている。まんまとリンドウの術中にはまっているのだ。けだし、惚れたほうの負けである。

 

*1:田に影を作らないため、刈り草を肥料にするため、等々の理由がある

*2:根は薬になるらしいが、今のわたしにとっては意味のないことだ。

奥野克巳さんからの熱烈なご紹介について

 先日、光栄にも人類学者の奥野克巳さんに『つち式』をご紹介いただいた。

 奥野克巳さんといえば、先ごろ出版された『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』でも有名な気鋭の人類学者である。今回、思いがけず取り上げていただけたことは、まさに棚から牡丹餅というべき事態であり、その好運に自分でも驚いているところだ*1
 引用したツイートにある「マルチスピーシーズ」とは、人類学のあらたな潮流のキーワードである。その名も「マルチスピーシーズ人類学」が主題とするのは、人類という単一種だけでなく、人類と人類でない異種たちの関係の生き生きと重畳する世界だといってよいだろう。奇しくもそれは、雑誌『つち式』の主題と大きく重なっていたのだった。
 そして奥野さんは、日本のマルチスピーシーズ人類学の牽引者のお一人である。つまり今回、人類学と『つち式』とは、別個の経路を辿ってきて同じ地点で邂逅したのだ。
 わたしのこれまでの道行きの途上に、多くの共感者がいたとはいえない。わたしはその道の大半を一人で歩いてきた*2し、『つち式』も数少ない仲間と制作したのだった。しかし今考えれば、本誌創刊はある意味最後の一歩であったのだ。からくもその一歩を踏み出した地点には、人類学の太い道が交差していた。
 今、細い道から一気にひらけた場所に踏み入って、わたしは大変にうれしくありながら、少々動揺してもいる。そこではさかんに人々がゆきかっており、その光景は、これまでのことを思うと俄かに信じがたいのだ。この僥倖に早く慣れたい。

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 上に引いた奥野さんの熱烈な紹介ツイートに接して、マルチスピーシーズ人類学への興味に駆られたわたしは、奥野さんたちのシンポジウムに出席するべく、熊本に行くことにした。
 そう意気込んでいたところに、折しも奥野さんからお電話をいただいて、話は盛り上がり、なんとシンポジウム前日にトークイベントをしようということになったのだ。
 長崎書店さんのご協力にも恵まれ、あれよあれよという間に話は進み、奥野さんのお誘いによって同じく人類学者の石倉敏明さんにもご登壇いただける運びとなり、『つち式』をめぐる鼎談の開催に漕ぎつけたという次第である。
 
 今回の一連の「事件」には心底驚かされた。こうした種類の歓びには慣れていないからうまく言葉にできない。
 ともかく、それもこれも『つち式』を作っていなければありえなかった話である。創刊して本当によかったと思う。
 奥野さん、ありがとうございます。
 

*1:奥野さんのツイート後、ネットショップにおいてこれまでにないほどの売上げが見られた。

*2:異種たちとともにではあるが!

鼎談イベント予告

雑誌『つち式』創刊記念トークイベント

「生命の〈からまりあい〉に生きる」
来たるべきマルチスピーシーズ的未来のために

東千茅×奥野克巳×石倉敏明

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12月7日(金)
19:00〜20:45(開場18:30)
参加費 1,000円
於 長崎書店3階 リトルスターホール
熊本県熊本市中央区上通町6−23)
https://www.nagasakishoten.jp/hall/

ご予約先:
つち式 東千茅
omusubiradio@gmail.com
(件名を「トークイベント申し込み」とし、代表者氏名・人数・電話番号をお知らせください)


人間と異種との関係が、いま注目されている。
無数の生き物たちが複雑にからまりあい目もあやに織りなす生態系に、生活をとおして合流しようとする雑誌『つち式』の試みは、人類学のあらたな潮流「マルチスピーシーズ」思想と期せずして交差した。
マルチスピーシーズ人類学を牽引する奥野克巳さんと石倉敏明さんをお迎えし、異種関係から生じる相乗的ダイナミズムや我が国の農耕文化について語り合いたい。

●『つち式』とは
「生きる」という、今や比喩表現でしかないこの営みを、あくまで現実的に根柢から生き直そうとする試み。異種生物たちを利用し、異種生物たちに利用されながら成り立つ人間の生の本然を、より生きるための「ライフマガジン」
https://tsuchishiki.thebase.in/items/11864278

■マルチスピーシーズ人類学
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/katsumiokuno/multi-species-workshop.html

 

登壇者プロフィール:
◆東千茅(あづま ちがや)
https://twitter.com/shhazm
1991年大阪府生まれ。雑誌『つち式』主宰。2015年、大阪から奈良県宇陀市へ移住。家庭教師などをして最低限の収入を得ながら、日々の大半を稲作や養鶏などの自給仕事に費やしている。

◆奥野克巳(おくの かつみ)
https://twitter.com/berayung
立教大学異文化コミュニケーション学部教授。主な著作『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(2018、亜紀書房)、『「精霊の仕業」と「人の仕業」』(2004、春風社)、訳書に『森は考える』(E.コーン著、2016、亜紀書房)『ソウル・ハンターズ』(R.ウィラースレフ著、2010、亜紀書房)。

◆石倉敏明(いしくら としあき
https://twitter.com/julunggul
秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻、大学院複合芸術専攻准教授。明治大学野生の科学研究所研究員。共著に『Lexicon 現代人類学』(奥野克巳共編、2018、以文社)、『どうぶつのことば 根源的暴力を超えて』(鴻池朋子共著、2016、羽鳥書店)、『野生めぐり 列島神話をめぐる12の旅』(田附勝共著、2015、淡交社)など。

当日会場にて、登壇者の著作を販売いたします。