若さの安売りについて

 起きているあいだは、意識しないときでさえ、俺はずっとイライラしている。それが長く続いているせいで、アイデンティティの基調にすらなっているほどだ。

 同世代への苛立ちがその最たるものである。以下はだいぶ前に書いた文章だが、さっき読み返してみて現在の心境と寸分たがわないことに幾分動揺しさえした。状況は毛ほども変わっていない。

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 今日では皆、若さを安売りすることに慣れすぎている。若人がなぜ、世間一般に受けのいいことばかりに日夜かまけているのか。信じがたいことだ。
 僕らの世代の美徳あるいは悪徳は、受け入れられようとすることだ。僕らの多くが、世人の理解の内側でしか考えようとしない。当然のように評価を前提に行動する。しかし、受け入れられてはならないのだ。世人を驚かすこと、若さとは、そういうものではなかったか。
 今日では、まことに遺憾ながら、実際より歳をとった若者が多い。社会は、僕らの若さを吸い上げ、燃料にして動いているようだ。僕らのほうでも、それに家畜よろしくヘコヘコ従い、なされるがままというわけだ。まさに意気衰えた年寄り、犬のような暮らし。
 おそらく僕らは、早く認めてもらおうと思いすぎている。いきおい、そこには、今生きている人による評価が念頭にある。しかし僕としては、今生きている人よりも、むしろ過去や未来の人に向けて生きたい。
 ここで、僕は言わねばならない。お行儀のいい者たちが何か価値あるものをつくった試しがあったか。否、断じて否。

  自分の穏和さ加減に俺はつねづねがっかりしているというのに、ほかのヤツらときたら俺よりひどい有り様だ。

 なにやってんねん殺すぞボケ