ステキな行方不明

 行方不明!

 なんと甘美な響きだろう。ニュースなどでこの一語を見聞きするたびに、僕はつねづねそう思ってきた。

 われわれは生きているかぎり、日々履歴を積み上げてしまう。それは人を支えもするが、制約しもする。僕にはそれが煩わしくなって、世間からも、自分自身からさえも、行方不明になりたいと思うことがある。

 

 先日、『アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)』という小説を読んだ。地方都市の醸す閉塞感や、そこに住む若者たちのありがちな焦燥や足掻きを如実に描きながら、いろいろあったけど全部ぶった切って、たくましく朗らかに生きていこうする「女の子」たちの描写で終わる、軽くて、ほろ苦くて、最後はなんとなく爽やかな気分になれる話だった。

 たしかに、「女の子」たちへの、なかば強引な、とってつけたような肩入れで幕が切れるので、「え、『男』たちは…?」と、それまでつぶさに描写されてきたはずの男たちの、あっさりと順当なところに回収されてしまう結末への腑に落ちないかんじが際立つけれども、とまれ、男たちはこれくらいの扱いでいいのかもな、とも思う。

 それはそれとして、この物語では、「行方不明」ということが喚起するもう一つの、ネガティヴでない面——つまり、履歴をリセットして生まれ変わる、あるいは人生を生きなおしてゆくというような、爽やかな方向性が掬いあげられている。それはまったく痛快なものだ。

 わたしの「行方不明」への衝動も、こうした、「ムカつく現実」からの脱出や、窮屈さからの解放といったものを目がけている。

 

 関連して、茨木のり子の詩に『行方不明の時間』というのがある——

人間には行方不明の時間が必要です
なぜかわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです
三十分であれ 一時間であれ
ボワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ

遠野物語の寒戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
直ちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
<すぐに戻れ>や<今 どこ?>に
答えるために

遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり、圏外であったりすれば
絶望は更に深まるだろう
シャツ一枚打ち振るよりも
私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです

目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
不気味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸い込まれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
さすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ

 まったくもってこの詩には、「行方不明」についての諸々がもれなく詰まっている(この人の詩はどれも言い過ぎるきらいがある)。

 いかにも、わたしにはすべてを「チャラ」にしたいときがあるのである。いわゆる「黒歴史」をふくめ、楽しかった思い出や築いてきたもの(そんなものがあったとしてだが)すら、履歴全部を、なくしてしまいたい。

 なぜなら、履歴というものは、それが世間に記録されるものにせよ、自分に記憶されるものにせよ、あまりにも重いから。その内訳ひとつひとつの種類はさほど問題ではない。

 履歴とは、僕にとって足枷のイメージだ。最初のうちこそそれは、地上で暮らすための適度な重りになるが、年月の経過とともにだんだん動くのに不都合がでてくる。そうして次第に、走ることも飛ぶこともできなくなる。

 だから時折、誰も自分を知らない遠くの土地へ行って、そこで記憶喪失になれたらいいのに、と思う。だが、たとえそうなったとしても、僕がこのカラダという枠を持ちつづける以上、ふたたび僕は「僕」個人として重たくなっていってしまう。カラダというのは重すぎる。

 したがって、僕の望みの最果ては、はじめから一個体として存在などしなかったかのように、〈全体〉にあまねく溶けることだ。どこにもいないしどこにでもいる、誰でもないし誰でもある、軽快な、透明な、宇宙を満たしているというエーテルのようなものになりたい。

 

 もっとも、以上のことは、ふとたまに僕に訪れる小さな波のような考えにすぎない。

 目下、基本的に僕は、日に日に増すカラダの重さを楽しみたいと思っている。高く積み上げたものほど、壊すときにスカッとするだろうし。

 

アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)

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倚りかからず (ちくま文庫)

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