日記 七月十四日(平成廿八年)
未明に雨、のち曇り時々晴れ、夕方に小雨。
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早朝、田んぼの巡回と野菜の世話をひとしきり。その後昼まで棚田の草刈り。一旦帰宅、昼飯。きょうはさほど暑くなく、シャワーも昼寝もなし。昼からも日没まで棚田の草刈り。
(雲が多かった)
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きょうは一日中棚田の草刈りをした。予定は決めずに行って、なんとなく草刈りの日だなと思い立ちやりだすと、全部やったれという気になってきて一番下から一番上まで大方刈った(それだけほったらかしにしていたということ)。
炎天下でやると死にそうになるが、きょうは雲が多く、日が射したかとおもえば曇る天気で、絶好の草刈り日和だった。一日中刈払い機を振りまわしても苦にならず、溜まっていた分をだいぶ消化できた。
もっとも、一度に草を刈りすぎるのは、生態系上、また作物の栽培上でもよろしくはないのだろうが、畝にも草がボーボーに生えているので、まあいけると思われる。
(畦と法はきれいになった)
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昼に一旦帰ってきたときに、ちょうどアマゾンからの荷物が届いた。中身はこれ——
さっそく現場で試してみた。チップソーがちょっと切れにくくなってきたなという時に、その場に設置して5秒間刃をあてるだけで、切れ味がある程度恢復する。これはなかなかいい。
日記 七月十二日(平成廿八年)
曇り、時々雨、のち晴れ。
9時頃から雨との予報が昨晩から出ていたので、それまで草刈りをしようと思っていたら、夜更かしが祟って寝坊、8時前に起床。意気くじけて、森下さんを迎えにいくまでのあいだ、コンビニのコーヒーをすすりながら書きかけの文章を進めることにする。10時前、森下さんをのせて森下邸に到着。そのまま畠で野菜の世話。雨は降ったり止んだり。昼すぎ、あしたから定期入院される森下さんの希望で、向かいのカフェにお連れして昼食。送り届けて再び野菜の世話、田んぼの巡回。じょじょに晴れてくる。18時すぎ、移動し、頼まれているところの草刈り。日没少し前に帰宅。
(だいぶ大きくなってきた、カマキリもエダマメも。)
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きょうみたいな、雨が降ったりやんだりという天気が一番やりにくい。しっかり降ってくれればあきらめがつくが、中途半端に降っては止み、止んでは降りというのでは、こちらも出方を決めかねる。休んではかえって落ちつかないし、野に出たら出たで仕事がしづらいから。
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最近、毎日のように刈払い機を振りまわしている気がする。この時期は、高温と降雨で草たちの勢いが物凄く、刈ったシリからまた生えてくる。くわえて、いろんな人から頼まれている分もあるので、一巡するのにもけっこうかかる。今週中にはひと通り終わらせて、早く鶏小屋を建てねばならない。
日記 七月十日(平成廿八年)
概ね晴れ。
6時、森下さんの村の草刈りと溝の泥上げ(この辺ではこういうのを「出合い」と呼ぶ)に代理で出る。10時頃に解散後、田んぼの見まわり、つづいて昼すぎまで今季最後(今度こそ!)の黒豆を播種(もうやめとこうと思っていたのだが、種と畝が余っていたので思いたってやった)。帰宅、シャワー、ビール、昼飯、昼寝。15時半頃から、もう一つの畠の世話。17時半から約一時間、頼まれていたところの草刈り。田んぼの見まわり。日没、帰宅。
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きょうは疲れた。寝る。
日記 七月九日(平成廿八年)
未明から大雨。
早朝に田んぼの点検だけ済ませ、帰宅、家をすこし掃除。車で森下さんを診療所に迎えにゆく。ついでに役場に寄り、参院選の期日前投票を済ませる。森下さんを送り届けた後、榛原の目医者にコンタクトレンズの検診に行く。帰りにコンビニでコーヒーを買い、そのまま車のなかで池澤夏樹の『帰ってきた男』(短篇集『マリコ/マリキータ』所収)を読む。14時半頃帰宅。雨いまだ止まず。家の向かいのカフェにて、居合わせた大家さん夫妻と話したり、書きかけの文章を進めたり、同じく池澤夏樹の『冒険』を読んだり。17時頃、雨があがったので畠へ。綿花、トマト、ナスの移植、田畠の見まわり。日没。
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恥ずかしながら、池澤夏樹を読むのはこれが初めてである。以前から気になっており、先日たまたま古本屋で上記の短編集を手に入れた。読んでみて、なんとなく自分と近しいものを感じ、好感をもった。
現世や社会の枠外への郷愁にも似た強いあこがれと、あこがれつつも枠外へ出られない自分、出てはいけないような気がしている自分、その歯痒さ、そのさびしさ、地上の存在にあらかじめ備わっている葛藤、みたいな。シガラミからの脱出を夢見ながら、シガラミと不可分に自己同一してしまっている自分という「不自由な」存在、みたいな。そのあたり。
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雨の前には、沢の水を田に引くための樋を完全に外す。雨が止めば元にもどす。田の水の溜まりがわるい時は、モグラの穴を見つけて埋める。だいたいこれが、田んぼの水の管理。
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あしたは森下さんの村の草刈りに代理で出る。朝早いので寝る。
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蝉
数日前の暮れ方、畠にある栗の木の切り株に、セミの幼虫が這い上がってくるのに出くわしました。
種類までは不案内でわかりませんが、ものによっては十数年、土のなかで暮らすのもあるとか。あまたの危機をくぐりぬけ、満を持して地上に出てくるのでしょう。
それを思えば、夏の暑さを助長するかのようなセミの声も、ちょっとはありがたがらなあかんなと少年の頃考えていたことを、羽化する場所をもとめて、ゆっくりと歩む幼虫をながめながら、思い出しました。
せっかくなので翌朝、早起きして羽化の瞬間を見ようと思っていたら、寝過ごしました。その日は仕事で、夕方になってから見に行くと、切り株の下に抜け殻が落ちていました。
無事に成虫になったのだなという安堵と、なんとなく置いて行かれたようなさびしさがありました。だんだんあたりは暗くなり、生ぬるい風が吹いてくるのでした。
日記 七月七日(平成廿八年)
早朝から、刈払い機で森下さんのところの草刈り。あまりに暑くなってきたので、手鎌に持ちかえ11時頃から昼までお家の裏の斜面(日陰になっている)の草刈り。この時点で汗だく。
一旦帰ってシャワー、ビール、昼飯(この時期は素麺にかぎる)、昼寝。
15時頃から再開。刈った草を熊手で集め、バケツに入れて運び、畠に敷く。たちのぼる刈り草の匂いがいい。ただこれがけっこう時間がかかる。鶏小屋(未完成)の前は草を集めるだけにして(写真)、畠仕事にうつる。
段畠の里芋に土寄せ、草寄せ(写真)。棚田の見まわり。段畠に今季最後の小豆、黒豆を播種(ニワトリの餌のミミズを獲りながら)。
種播きは同じ作業のくり返しなので、量が多いとイヤになってくる。しゃがんで俯いた姿勢でやるから、腰も痛くなる。そういう時は、一度立ち上がって伸びをして、空をあおぐ。近ごろは空の青みも増して、夏雲の形もおもしろいから、合間に空を見るといい気分転換になる。それでもしんどい時はタバコ休憩をとる。
この後、野菜の世話などちょこちょこしていたら日が暮れた。
ここ一ヶ月ほどは、田植えや種播きやらで他の事があまりできなかった。田んぼ畠のほうは一段落だが、草刈りの仕事がたまっている。きのうも別の人から草刈りを頼まれた。ひとつひとつ片づけてゆくしかないが、あしたから三日間ほどは雨模様らしいから、野良仕事は野菜の移植くらいにして、かわりに、乱れに乱れている家の掃除でもしよう(休息もかねて)。それから、久しぶりに本を読んだり、ものを書いたりしよう。
アレロケミカルがありあまる(日記)
前回の「日記」で、フェロモン (生物の同種個体間に作用する物質) の圏域への、わたしの欲求について触れた。わたしにとってものを書くことは、ニンゲンという同種個々体へむけた、ほとんど一方的な発信であると。そして、わたしがそうせずにいられなかったのは、ここ数ヶ月のあいだ、あまりにフェロモンを生産また受容せずにいたからであると。
生物個体内部に発生作用する物質をホルモン、同種個体間に作用する物質をフェロモンという。これらはよく知られたものであるが、いま一つ、異種個体間に作用するアレロケミカル(アロモン、カイロモン、シノモン)なるものがある。くわしくはネット検索でもしてもらえればよい。
ともかく、大宇陀に移り住んでから、わたしはフェロモンよりも格段に多くアレロケミカルを感受し放射する日々をおくっている。暇があれば田畠に山にくりだす。そこにニンゲンはいない。ただもう種々の草木、虫獣が犇めいている。彼らは、あるいは共助し、あるいは妨害し、あるいは利用し、それぞれに関わりあいながら生きている。その輪のなかへ参加することは、きわめて愉快で甘美な経験である。
が、ときにそれは危険な経験でもありうる。インディアンたちの言うように、自らの「裂け目」を開らきすぎてはいけない。これには微妙な加減が要る。輪のなかに加わるために自分を開らきながらも、いつでも閉じる用意をしていなければならない。そうでなければ、不意に足をすくわれる。われわれは、裂け目によって力を得るとともに、裂け目によって死ぬのであるらしい。
それにしても、いわゆる里山というのは、ニンゲンと自然との境界に位置し、両者の力の均衡が見事にたもたれている場である。われわれが日常的に、特段の身構えや大掛かりな装備なしに、自然との交感を楽しむことができる場であるといえる。
さて、話をもどす。わたしは、こうした異種生命との関わりをもとめて大宇陀にやってきたのである。都会にはニンゲンばかりで、いきおいフェロモンの交感しかなく、つまらない。対して田舎には、アレロケミカルがあふれている。
断っておくが、自給自足をめざしているかに見えるわたしが、もっと人の世と隔絶した山奥に行っていないのは、なにもアレロケミカルのみを求めているのではないからだ。
去年だったか、ヨーロッパのほうで、数年前に失踪した男性が山奥で孤独に暮らしているのを偶然発見されたというニュースがあった。彼は「人間社会で生きたくない」などと言い残し、また山のなかへ消えたという。
彼に共感する部分もないではないが、わたしはあくまで人間社会の一員としてフェロモンを交感しつつ、アレロケミカルをも十全に交感したかったのである。これが、大宇陀という見様によっては中途半端な田舎にわたしが越してきた所以である。
つづければだらだらと長くなるのでここらで筆をおく。あしたも早い。