廿八年度の作戰まとめ

 28年度におこなう予定である、「野性奪還」にむけた三つの主な「作戦」について、これまで個別に掲載してきた。

 時間が経過し、変更ないし進行した箇所もあるので、それぞれ続報を書かねばならないと思っているのだが、年度替わりにあたり、とりあえずここに28年度の実施予定事項を一覧してまとめておく。

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廿八年度におこなう事

◯米栽培

 米を自給すること――これはわたしにとって巨大に意味のある行為である。米(うるち米)はわれわれの主食であり、生活の根幹をなすものの一つであるが、それを自分で栽培し調達することは、生きることの〈主権〉や〈自由〉を確保するのに欠かせないことと信じる。米づくりは、今年度の最優先事項である。

  • 栽培法の基本形は自然農を採用。遊休田だった田地において不耕起・不施肥・不潅水での陸稲栽培を試みる。
  • 栽培品種は、イセヒカリ陸稲農林24号(少量)を採用。当初候補にあげていたハッピーヒルは、購入先と考えていた野口種苗で取扱いがおわっていたためあきらめた。
  • 田地の整備として、冬のあいだに米ぬか・油かすの散布、また裏作にソラマメ・エンドウの栽培をおこなっている。
  • 四月下旬の播種を予定。

 

◯紡績

 衣服を自給することも、食糧自給とならんで「生活の自治」に欠かせぬ行為である。

 紡績と書いたが、経験のない綿花栽培からおこなうので、どこまでできるか正直なところわからない。しかも、糸車や機織り機を入手する目処もいまのところ立っていない。さしあたっては綿花をつくることに集中したい。

  • 綿花の栽培法も基本形は自然農(耕さない、肥料・農薬を用いない、草や虫を敵としない)を採用する。ただし栽培予定地がやや痩せていると思われるので、今年度は土の表面に山の腐葉土を置く。
  • 栽培品種は、和綿[わわた]を採用。種はおなじ奈良県天理市の方(天理やまのべ木綿庵 | H.A.M.A.木綿庵さん)から購入。
  • 五月の大型連休の頃の播種を予定。

 

◯養鶏

 ニワトリを飼育し、鶏卵と鶏肉を自給したいと思っている。これも食糧自給の範疇にはいる事項である。

  • 品種は名古屋コーチン。現在知合いの方にたのんで増やしてもらっているところ。
  • 飼育は、小屋を建てその周辺を柵で囲んで、「半平飼い」でおこなう。小屋の建設は先日とりかかったが、四月五月は野菜等の播種作業におわれるため、夏前の完成をめざす。
  • 餌は、豆腐屋で安価にもらってくるオカラを発酵させたものと、野菜くずなどをあたえる。

 

 以上、28年度の三つの主な「作戦」である。

 このほかにも、季節の野菜を多く栽培するし、「短期作戦」としてさまざまの事柄をおこなうつもりである。

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すごもりびと とをひらく

 季節は二十四節気で「啓蟄」、七十二候では「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」である。春らしい気候になり、まさに暦どおり、畠ではカエルやトカゲの姿が見られるようになってきた。

 梅や椿や蕗や、その他無数の植物たちも花を咲かせ、ひしめきあい、地上はたちまち賑わいをみせる。それぞれがそれぞれの歌をたからかにうたいあう、生命の大合唱が聞こえてくるかのようである。

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 春の陽気にさそわれて外界への戸をひらいたのは、なにも「虫」や草木だけではない。わたしも、冬のあいだあんなに億劫だったのが噓のように、戸外へおどりでる。春の歓喜の輪のなかに入ってゆく。

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 爛漫とうたう彼らと目くばせしながら、わたしも春を謳歌しようと思い、今週は空の下でさまざまのことをした。

 以下にその一部を掲載する(写真を撮ったのがこれだけしかない…)。

 

  • 鶏小屋建設予定地に植わっていた梅の移動

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  大阪から友人が一人手伝いにきてくれたので、鶏小屋を建てる場所にあった梅の木をべつの場所に移した。掘りあげて(一枚目)、棒を渡して肩にかついで運び(二枚目)、棚田の最上部に移植した(三枚目)。これでようやく鶏小屋の建設にとりかかれる。

 

  • 梅の剪定ならびに配布

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  上述した梅の木を移すにあたり、邪魔になる枝を切ったのだが、捨てるにはしのびず、の前でくばることにした。はからずも元花屋にふさわしい絵になった(一、二枚目)。あまりに好評だったので、後日ちょうど剪定しなければならなかった他の梅の木も切って配布した(三枚目)。いずれも日を置かずに「完売」した。

 

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 かねてから、学生時代にしていた弓道を再開したいと思っていたのだが、古い畳を三枚ならべ、そこに的を描いて簡易の野外弓道場をつくったみた。借りている棚田に隣る広場なので、作業のあいまに弓を引けるという寸法だ。(なお畳は、たまたま近所の方に訊いてみたところ、不要になったものをいただけた。なんでも言ってみるものである。)

貪婪なわたしたち

 わたしたちの世代は、しばしば年長の世代から「欲がない」と非難気味に評されてきた。さすがに現在ではそうした声はすくなくなったが、いまだに耳にすることもある。

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 そうした声に対する、わたしたちの反応ないし反論は、「ほしいものがちがう(変わった)」というものだった。もっとも、具体的な場面の多くでは、その声が年長者から発せられたものであるために、わたしたちはただ「そうですかねー」と当り障りない返事をしつつ、恐縮の笑みをつくっては、煙にまくのがつねであった。
 その背後には、自分たちの「ほしいもの」を、きっと彼らは欲の対象と見なさず、それゆえ理解できず、それゆえ説明しても伝わらないだろう、といった気持ちと、自分たちの「ほしいもの」というのが実のところははっきりとわからず、それゆえ説明しづらい、といった気持ちがあるように思う。
 たしかにわたしたちの多くが、先行世代の熱烈に欲してきたもの(カネや贅沢品や名誉や地位、等々)をことごとく欲していないものの、それでもなお、わたしたちは熱烈に何かを欲している。だから、やはりわたしたちの世代は「欲がない」のではなく、別のものに「欲がある」だけなのだが、問題は、わたしたち自身にとってもその対象が明確に認識されていないこと、あるいは、それが容易に明確化できない種類のものであること、であろう。
 
 ワカモノたちの欲するものとして、たたとえば「つながり」というものがよく挙げられる印象がある。その発現形態が、シェアハウスへの居住であったり、地方への移住であったりするのだ、という主張もよく聞かれる。
 だがそう言われても、「なるほどわたしたちはツナガリを欲しているのか」と目からうろこは落ちない。当たらずといえども遠からずなのだが、それだけに隔靴掻痒の感がある。
 わたしたちが欲するものとは、一言では片づかないほど複雑な、それでいて、どんなに言葉をつくそうともかえって言いあらわせないほど単純な、〈根本的な〉何かである。
 もちろん、日ごろわたしたちは各様に考え、各様に振舞ってはいる。が、煎じつめてみれば、誰もが皆「生きること」を欲しているのではないか。
 いうまでもなくそれは、ただ生命を維持してゆくことばかりでなく、まさに「生きる」という包括的な営みの諸相を豊饒化し、十全に経験することであると思う。そのなかには、まちがいなく他人とのつながりもふくまれようし、それ以外にも、自由な創造、自然との交感、等々、無数の「味わい」がある。
 この世界の実相のひとつひとつを、豊かに味わいつくすこと。
 
 こうみると、わたしたちの世代は「欲がない」どころか、むしろ「欲があふれている」といってよいくらいに思えてくる。しかもそのことは、「いまのワカモノには欲がない」と言う世代の、逆に「欲がまずしい」ことを曝露する。
 かつて宗教や国家や企業や社会通念などによって演出され、限定され、強いられてきた「生」の窮屈さを脱し、ありのままの「生」をあますところなく享受したいという〈解放された欲〉につきうごかされて、わたしたちは世界を貪婪にむさぼってゆく。

実生活に関する覚書き

 もったいつけて、ヨガだ座禅だ瞑想だの(その他多くの同種行為)を生活にとりいれ、挙句これ見よがしに持ちだしているうちは、人類はまだまだなのだろう。わざわざそんな面倒なことをせねば、宇宙の原理(みたいなもの)にいまだ触れられないとは、じつに嘆かわしいことではないか。宮澤賢治が見たら悲しむにちがいない。
 

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Wikipediaから拝借)

 たしかにそれらに手をだすことは、自分自身からの倫理的追及への敏感な反応として評価されるべき点もある。だが、そうして彼らの敏感さを定位するならば、その作為的に代償機会をとりいれねばならないことはそのまま、実生活の形態が霊感の生成力に貧しいことをあらわすのではあるまいか。
 しかも、そのような生活全体の仕様の変革ではなしに、新たな一部の導入によって生活を代償する行為は、なるほど変革の初期において、あるいは変革の前夜においては、進むべき方向を啓示してくれるものであるにしても、その性質の対症療法的であるがゆえに、かえってそれは、変革を遅延させる自己欺瞞に容易に転化しもする。それさえしておけば、一応その間、ないしその後しばらくは、自分自身からの追及を回避できるからである。
 が、そういった「懐柔策」をいくら弄してみても、自身の倫理的追及は一時的に潜在するのみで、決して解消されることはない。形態としての実生活の、〈原理〉に違反する部分のあるかぎり、感性が敏感であればあるほど、事あるごとに彼らはその呵責にさいなまれつづけるであろう。
 
 かつて宮澤賢治は、このように呼びかけた。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
 いまもってこの呼びかけは、われわれの心をとらえてやまない。が、そのことはまさに、われわれの相も変わらず停滞していることを意味しはしないか。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という、巨視的な人類全体(あるいは生命全体)の水準における、彼の壮大過激にしてごく素朴な倫理的判断を、微視的な個人の水準におけるそれに通俗変換するならば、「生活がぜんたい幸福にならないうちは自我の幸福はあり得ない」とすることができる。世界にしても、個人の生活にしても、その全体の救済と解放なしには、ついに「まことの幸福」はおとずれない。
 
 つまるところは、われわれが実生活そのものを全面的に変革しなければならないということである。それは峻嶮をきわめる。それでも、これまた宮澤賢治の言うように、われわれは「苦痛をも享楽」しながら、「苦難を避けずに直進」するのだ。
 解放への道のりを歩く、その正しく強いほんとうの一歩一歩が、すでに解放なのであるから。
 

『微花』に寄せる

 去る先週の日曜日、友人でもある微花(@kasuka___)の二人のトークイベントに、なぜか突然行かねばならない気がして行ってきた。その予感はあたっていて、聴きにいってほんとうによかった。
 
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 ✴︎
 
 『微花(かすか)』は、社会的な分類にしたがえばZine、リトルプレスであり、自称また個別的な顔は「季刊の植物図鑑」である。それも、一般的に図鑑にもとめられる情報とその量の一切を排し、いくつかの草花の名前と写真、それらにまつわる文章のみで構成された植物図鑑である(その理由は本書をひもとけばおのずと諒解される)。
 

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 『微花』は、身のまわりの草花の〈存在〉を指ししめし、日常の景色の豊かであることを鮮やかに開示する。それはそのまま、われわれの日常の視野のうちに花々を咲かせること、つまり「すでにある豊かさ」へわれわれの感性を開放することに他ならない。
 実際には咲いていたにもかかわらず、視野のうちに花々が咲いていなかったことは、〈開かれてある〉草花、ひいては〈開かれてある〉世界において、われわれが閉じていた、ということを意味する。さしずめ『微花』は、閉じていたわれわれの部屋にうがたれた、われわれと開かれてある世界とをつなぐひとつの窓である。
 『微花』という窓をとおしたわれわれの草花への視線は、その効用や使い道にむけられるのではなく、まずそれらの存在そのものにむけられる。それらがただそこに在ること自体に感嘆すること、開かれてある世界に自身を開いてゆくこと、そこから、われわれは世界を生きなおしてゆくことができる。
 もっとも、多種多様な生命の交響する「開かれてある環」としての世界に十全に生きなおすためには、なお実践の形態として「開いた生活」を要するものの、なにより先立つのは感性を開くことであるから、その点で『微花』は、読む人に世界を生きなおすきっかけをもたらすものである。
 

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 ✳︎
 
 以上、トークイベントに行った記念に、僭越ながら『微花』について感想を書かせてもらった。
 わたしはせっかちで、しっかりと踏みしめるべきところを早足でとおりすぎてしまうきらいがある。そのため、そこで得られるはずの霊感や推力を吸収しきれないことがままあるので、時折たちもどらなければならないのだが、今回、考えの近い微花の二人の話を聴くことで、自分の「原理」を闡明することができた。そのことをわたしはいたく感謝している。
 
 ところで、微花の二人は今後、まさに自らうがった窓から見てしまった、目もあやな景色によって、窓の前に立ちつづけることはできなくなるであろう。いいかえれば彼らは、景色を見る者という立場にあきたらず、その豊かな景色自体の一部になること(*1)を希求するであろう。
 したがって、つぎに彼らは、景色のなかに跳びだすべく、窓の穴をひろげてゆく作業に着手するはずである。それがどのようなものになるのか、今からわたしは楽しみで仕方がない。
 
 
*1 われわれが『微花』をとおして見られる〈開かれてある環〉としての世界に、その一部として実際に生きるには、かの豊かな草花と同水準において〈在る〉必要がある。しかし〈在る〉ということがきわめて現世的地上的な行為(生活!)に支えられるものである以上、そのためには、〈在る〉ものたち全部のただ在ることへの畏怖を維持しながら、特定のものたちを選択し位置づけ利用する力を手に入れなければならない。ここに大きな、のりこえるべき困難があるといえる。
 

破壊に関する覚書き

 廃墟マニアと呼ばれる人たちが増えているらしい。廃墟に特有の美を見たり、好奇心から探検の対象としたり、往時に思いを馳せ諸行無常を感じたりと、人によって廃墟への興味の持ちようはさまざまだろう。かくいう私も、廃墟マニアとまではいかないが、打ち捨てられ、自然に侵蝕された建造物に心惹かれる者の一人だ。
 しかし私は、廃墟を廃墟として好いているというよりは、むしろ、日光や風雨や植物によって破壊行為が進行しているその様にしたしみをおぼている。
 

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 ともかく破壊という行為は、それを他者がおこなう場合でも、自分がおこなう場合でも、いつも私を楽しませてくれる。破壊行為には、生産行為にはない「ほがらかさ」がある。
 そもそも本質的に、生産は「集合」であり、破壊は「解放」である。何かを作るとき、われわれは自然の或る要素をその物の完成にむけて集合するのに対し、何かを壊すとき、われわれはその物の各要素を自然にむけて解放する。ほがらかさの有無は、こうした両者の質的相違によるのであろう。
 私の行為における好みは、破壊に傾斜している。何かを生産することも好きではあるが、その悦びも、やがては破壊する/される際の悦びの一部の先取りか、すくなくともその予感として感覚されているのではないかとすら思うことがある。
 
 結局のところ、生産は破壊に及ばないと思われる。
 我々とて、死という破壊によってこの生を終える。破壊されたのち、私であったものは分解され、やがて宙宇の原理によって、別のものたちが生産されるであろう。同様に、現在私であるものも、かつて別のものたちであったのだと思う。 
 宮沢賢治のこんな言葉を思い出した。
すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから
 この文言の意味するところを私が正確に理解しているとは言えないが、ともかく、きょうの私にとっては私でないものも、きょうの私でないだけで、すべてきのうの〈私〉であったかもしれず、すべてあすの〈私〉であるかもしれない。
 破壊されては生産され、生産されては破壊される〈我々〉であるけれども、一生産物としての立場――つまり現在の自己から見れば、その最終的破壊としての死はおそるべき脅威に映る。だが死は、現在輪郭をもつ個体にとって存在解体の脅威であると同時に、自然の原理によって不可抗的に集合され形成されてしまった自己の甘美な終局でもある。
 
 生産と破壊のくりかえしへの認識は、現在の〈我々〉をして、おなじ身の上として互いをいとおしませ結びつけさせるのに一役買う。だが他面で、その有無をいわせぬくりかえしの理不尽さへの怒りを併発しもする。
 そんなわけで、我々が日常おこなう大小の破壊行為には、単に日頃の不満解消などというチンケな動機よりも、もっと根源的な部分への異議申し立てや〈解放〉への意志が、その基層にあるように思われる。

精神の新陳代謝

 原理的にいえば、精神の新陳代謝を賦活することで、日々を奇跡の連続として知覚しうる。

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 米を毎日旨く感じるように、朝ごとの太陽のかがやき、夜ごとの星々のきらめき(曇りならばその雲の運行)などにも、我々は毎日感嘆できるはずなのだ。だがやはり、米を旨く感じるには腹がすいている必要があるように、〈ただ在るもの〉である自然の営みに感動するには精神をすかせておく必要がある。
 身体の代謝を促進するのに運動が必須なように、精神の代謝を促進するには「精神の運動」が必須であろう。精神をよく動かし、取り込んだ経験を次々に燃焼させること。精神の運動にあたるのは、上空へ飛翔し、そしてまた地上へ舞い降りる動きであると思う。
 
 そうして精神の腹をすかせたならば、つまり、あらゆるものはむなしいと観じたとき、いまここに〈ただ在るもの〉の美を我々はみとめる。