日記 七月九日(平成廿八年)

 未明から大雨。

 早朝に田んぼの点検だけ済ませ、帰宅、家をすこし掃除。車で森下さんを診療所に迎えにゆく。ついでに役場に寄り、参院選期日前投票を済ませる。森下さんを送り届けた後、榛原の目医者にコンタクトレンズの検診に行く。帰りにコンビニでコーヒーを買い、そのまま車のなかで池澤夏樹の『帰ってきた男』(短篇集『マリコ/マリキータ』所収)を読む。14時半頃帰宅。雨いまだ止まず。家の向かいのカフェにて、居合わせた大家さん夫妻と話したり、書きかけの文章を進めたり、同じく池澤夏樹の『冒険』を読んだり。17時頃、雨があがったので畠へ。綿花、トマト、ナスの移植、田畠の見まわり。日没。

 

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 恥ずかしながら、池澤夏樹を読むのはこれが初めてである。以前から気になっており、先日たまたま古本屋で上記の短編集を手に入れた。読んでみて、なんとなく自分と近しいものを感じ、好感をもった。

 現世や社会の枠外への郷愁にも似た強いあこがれと、あこがれつつも枠外へ出られない自分、出てはいけないような気がしている自分、その歯痒さ、そのさびしさ、地上の存在にあらかじめ備わっている葛藤、みたいな。シガラミからの脱出を夢見ながら、シガラミと不可分に自己同一してしまっている自分という「不自由な」存在、みたいな。そのあたり。

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 雨の前には、沢の水を田に引くための樋を完全に外す。雨が止めば元にもどす。田の水の溜まりがわるい時は、モグラの穴を見つけて埋める。だいたいこれが、田んぼの水の管理。

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 あしたは森下さんの村の草刈りに代理で出る。朝早いので寝る。

 

 

短篇集 マリコ/マリキータ (impala e-books)

短篇集 マリコ/マリキータ (impala e-books)

 

 

 数日前の暮れ方、畠にある栗の木の切り株に、セミの幼虫が這い上がってくるのに出くわしました。

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 種類までは不案内でわかりませんが、ものによっては十数年、土のなかで暮らすのもあるとか。あまたの危機をくぐりぬけ、満を持して地上に出てくるのでしょう。

 それを思えば、夏の暑さを助長するかのようなセミの声も、ちょっとはありがたがらなあかんなと少年の頃考えていたことを、羽化する場所をもとめて、ゆっくりと歩む幼虫をながめながら、思い出しました。

 せっかくなので翌朝、早起きして羽化の瞬間を見ようと思っていたら、寝過ごしました。その日は仕事で、夕方になってから見に行くと、切り株の下に抜け殻が落ちていました。

 無事に成虫になったのだなという安堵と、なんとなく置いて行かれたようなさびしさがありました。だんだんあたりは暗くなり、生ぬるい風が吹いてくるのでした。

日記 七月七日(平成廿八年)

 早朝から、刈払い機で森下さんのところの草刈り。あまりに暑くなってきたので、手鎌に持ちかえ11時頃から昼までお家の裏の斜面(日陰になっている)の草刈り。この時点で汗だく。
 一旦帰ってシャワー、ビール、昼飯(この時期は素麺にかぎる)、昼寝。
 15時頃から再開。刈った草を熊手で集め、バケツに入れて運び、畠に敷く。たちのぼる刈り草の匂いがいい。ただこれがけっこう時間がかかる。鶏小屋(未完成)の前は草を集めるだけにして(写真)、畠仕事にうつる。

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 段畠の里芋に土寄せ、草寄せ(写真)。棚田の見まわり。段畠に今季最後の小豆、黒豆を播種(ニワトリの餌のミミズを獲りながら)。

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 種播きは同じ作業のくり返しなので、量が多いとイヤになってくる。しゃがんで俯いた姿勢でやるから、腰も痛くなる。そういう時は、一度立ち上がって伸びをして、空をあおぐ。近ごろは空の青みも増して、夏雲の形もおもしろいから、合間に空を見るといい気分転換になる。それでもしんどい時はタバコ休憩をとる。
 この後、野菜の世話などちょこちょこしていたら日が暮れた。

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 ここ一ヶ月ほどは、田植えや種播きやらで他の事があまりできなかった。田んぼ畠のほうは一段落だが、草刈りの仕事がたまっている。きのうも別の人から草刈りを頼まれた。ひとつひとつ片づけてゆくしかないが、あしたから三日間ほどは雨模様らしいから、野良仕事は野菜の移植くらいにして、かわりに、乱れに乱れている家の掃除でもしよう(休息もかねて)。それから、久しぶりに本を読んだり、ものを書いたりしよう。

アレロケミカルがありあまる(日記)

 前回の「日記」で、フェロモン (生物の同種個体間に作用する物質) の圏域への、わたしの欲求について触れた。わたしにとってものを書くことは、ニンゲンという同種個々体へむけた、ほとんど一方的な発信であると。そして、わたしがそうせずにいられなかったのは、ここ数ヶ月のあいだ、あまりにフェロモンを生産また受容せずにいたからであると。

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 生物個体内部に発生作用する物質をホルモン、同種個体間に作用する物質をフェロモンという。これらはよく知られたものであるが、いま一つ、異種個体間に作用するアレロケミカル(アロモン、カイロモン、シノモン)なるものがある。くわしくはネット検索でもしてもらえればよい。

 ともかく、大宇陀に移り住んでから、わたしはフェロモンよりも格段に多くアレロケミカルを感受し放射する日々をおくっている。暇があれば田畠に山にくりだす。そこにニンゲンはいない。ただもう種々の草木、虫獣が犇めいている。彼らは、あるいは共助し、あるいは妨害し、あるいは利用し、それぞれに関わりあいながら生きている。その輪のなかへ参加することは、きわめて愉快で甘美な経験である。

  が、ときにそれは危険な経験でもありうる。インディアンたちの言うように、自らの「裂け目」を開らきすぎてはいけない。これには微妙な加減が要る。輪のなかに加わるために自分を開らきながらも、いつでも閉じる用意をしていなければならない。そうでなければ、不意に足をすくわれる。われわれは、裂け目によって力を得るとともに、裂け目によって死ぬのであるらしい。

 それにしても、いわゆる里山というのは、ニンゲンと自然との境界に位置し、両者の力の均衡が見事にたもたれている場である。われわれが日常的に、特段の身構えや大掛かりな装備なしに、自然との交感を楽しむことができる場であるといえる。

 

 さて、話をもどす。わたしは、こうした異種生命との関わりをもとめて大宇陀にやってきたのである。都会にはニンゲンばかりで、いきおいフェロモンの交感しかなく、つまらない。対して田舎には、アレロケミカルがあふれている。

 断っておくが、自給自足をめざしているかに見えるわたしが、もっと人の世と隔絶した山奥に行っていないのは、なにもアレロケミカルのみを求めているのではないからだ。

 去年だったか、ヨーロッパのほうで、数年前に失踪した男性が山奥で孤独に暮らしているのを偶然発見されたというニュースがあった。彼は「人間社会で生きたくない」などと言い残し、また山のなかへ消えたという。

 彼に共感する部分もないではないが、わたしはあくまで人間社会の一員としてフェロモンを交感しつつ、アレロケミカルをも十全に交感したかったのである。これが、大宇陀という見様によっては中途半端な田舎にわたしが越してきた所以である。

 

 つづければだらだらと長くなるのでここらで筆をおく。あしたも早い。

六月の作業予定

 農繁期、月日はあれよあれよという間にすぎてゆく。予定を書く間もないまま六月に入ってしまった。

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 旧暦でも明後日から五月、暦のうえではすでに夏に入っている。春、淡かった陽射しは日増しに濃くなり、それに応えるように草たちもつぎつぎに伸びてくる。もはや踏青などとノホホンとかまえてはいられない。

 

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 さて、六月も仕事は目白押しである。大豆・小豆の種まきに、田植え、鶏小屋の建設、等々と、まだまだゆっくりできそうにない。

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 カレンダー上の赤い「あ」の日で「協力隊員」を募集する。来てくれる人は詳細記事を確認のうえ連絡してほしい。

yaseikaifuku.hatenablog.com

 

 


~夏は来ぬ~NHK東京放送児童合唱団

日記 五月廿五日(平成廿八年)

 書くということ――それが自分にとってたいへんな重要事なのだと、ここ一二ヶ月、ほとんど野良仕事にのみ時間をついやしているあいだ、感じつづけていた苛立ちによって思い知った。

 わたしはこれまで、他人に見せられるかどうかの自分のなかの一線を超えたものしか公開しておらず、Evernoteには書きかけの文章が積りに積もっている。しかし、書いたものを社会のなか(それが片隅であろうとも!)に投げてはじめて、わたしにとって「書いた」ことになるのだと感じはじめている。

 書かずにはいられぬなら、それを他人の目に触れるようにせずにはいられぬなら、こころみに、ちょろちょろとわたしのなかを通っている思考の流れに樋をかけ、このちいさなブログという田にたらたらとそれを引きたいとおもった。この際、従前のようにダムをこしらえ水質を調整してから注ぐこと――つまり、まとまりがどうだの、起承転結や面白味がどうだの思案することはやめて、ただただ流れのままに書きつけることだけをしてみたい。田んぼにどんなものが育つだろうか。

 おそらく、わたしがそうするのは、ニンゲンという同種間で呼びかわしたい本能的欲求(フェロモン!)からきている。その手段として「おおやけに書く」ということがわたしの性分にかなっているのであろうと思う。だからここに、だれに届くかも届かないかも知れない一抹の光を放ってみる(この表現はたぶん、最近わが家の隣に流れる小川に出だした、蛍たちの発光に感化されている)。

 

 「公開日記」という体にはしておくが、ふだんわたしは昼間の野良仕事を最優先に暮らしているので、どうあっても毎日は書けない。夜は飯を食ったら早く寝るし、昼も雨が降らないかぎりは野に出ている。それで十分なようだが、それだけでは充たされない面倒なニンゲンなのである。そういえば、小林秀雄がこんなことを書いていた――

人間は、正確に見ようとすれば、生きる方が不確かになり、充分に生きようとすれば、見る方が曖昧になる。誰でも日常経験している矛盾であり、僕等は永久に経験して行く事だろう。 (イデオロギイの問題) 

 彼のいう「見る」ということが、わたしにはどうも精神衛生上必要な行為らしい(もっとも彼がどういった文脈でこう言っているかは本文を読んでいないので知らない)。しかも、立ち止まって、「見る」ということである。動きつづけていてはできないことである。となると「見る」とは「立ち止まって考える」ということとほとんど同義なのかもしれない。

 しかし最近、『歩きながら考える』というリトルプレスのあることを知った。こちらも読んだことはないので、名前の意味合いや内容は知らないが、世の中には「歩きながら考える」ことのできる器用な人もいるのだと感心した。わたしなぞ、たとえば野良仕事の途中にふと或る考えの断片が脳内をよぎることこそあるものの、「考える」となると、ほかの事柄を放ったらかして文字どおり専念せねばならぬタチである。実際、わたしは晩飯をまだ食っていない(22時現在)。

 

 近ごろ感じていることを思い出せるままに書く。

  •  わたしはスッキリしすぎているもの、淡すぎるもの、軽すぎるものを好まない。そういう雰囲気にだまされてたまるかというヒネた感性。一方で、炭酸飲料的なものは好きである。でもやはりそれだけではいけない。甘みはほとんどいらない。なにかしっかりとした味(ジンジャーエールの生姜など)がいる。ここで気をつけねばならぬことは、炭酸水に味を添加するのではなく、味に炭酸水を添加することである。炭酸水はあくまであとから味に添えるものである。なのに炭酸ぽさを出すことに腐心しているヤツが多い印象があり癪である(地と柄の関係、中身とデザインの関係、等々に該当する)。ちなみに梅干しも大好きだが、ハチミツを添加するのは言語道断である。
  •  環境などへの懸念から、「貪らないこと」の重要性を倫理的な人がよく説いている。だがそれはムリな話ではないか。ニンゲンの性にかんがみるに、「貪り方」やその際の「視野」を変えるよりほかに仕方はないのではないか。それらを変えることが「貪らない」という表現にもなるのか。とにかくわたしは貪らずにはいられない。貪りつづけたい。
  •  大別して「直線」と「円環」の二つの世界観がある。わたしは前者から後者へ移行しつつある。殊にここ自然に富んだ大宇陀に移り住んでからは急速に。結局のところ、どちらが楽しいかという話だ。円環というと退屈なくりかえしのように聞こえるかもしれない。が、そもそもこの地球は球体で、自転と公転という円運動をしているし、太陽系全体が円運動をしている。ゆえに、そこに生じたわれわれが円運動に退屈するはずはないと考えられる。だがそれには、「地球のリズムに反しないかぎり」という注釈がつくであろう。もっとも、太陽系は円運動をしながらもどこかに移動しているのかもしれないが、しかしそこには円運動が前提されている。くわえて、生物種個々の生き死に、毎日の日の出日の入り、季節のめぐり、等々、いくらくりかえされるものとはいえ、まったく同一の瞬間はなく(たとえあってもわれわれの一生のうちではまずない)、しかも同一のようにかんじられる経験にさえわれわれは感動する。要は、感性の問題である。

 さて、あしたはひさしぶりに雨らしく、今晩はひさしぶりに夜ふかしすることにしよう。グザヴィエ・ドランの映画でも観るのでここで筆をおく。そのまえに、煙草がきれたのでコンビニに買いにゆく。

「東の田舎暮らし協力隊」詳細

 多くの地域もすなる「協力隊」といふものを、わたくしもしてみむとてするなり。
 

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 今年から、畠を増やし、米づくりや養鶏もはじめ、自然についての知識もついてきて、すべきことやしたいことが山ほどある。そこで、早い話が、諸々の作業を手伝ってくれる人員がほしいのである。
 現在、多くの地方自治体において、地域活性化の一環として「地域おこし協力隊」なる取組みがなされていることは、もはや周知の事実であろう。それに対抗する気などもとよりないが、どうせならそれにあやかろうと、こういうかたちでごく私的な「協力隊」を募集することにした。
 
 作業内容は、野良仕事全般であるが、時期やその日のわたしの気分によって変わる。一応、月ごとの作業予定日と、予想される作業項目は事前に告知するつもりだ。
 野菜づくりや養鶏などの田舎仕事に興味がある、自然に飢えている、いつかは田舎に移住したい、人助けが趣味、単に暇、等々、理由はとわない。とにかく手伝ってもらえるなら歓迎する。
 ただ、行楽や観光ではなく、作業の手伝いである以上、わたしは最低限のもてなししかしない。チラシにもあるように給料や保障も一切ない(野菜はあげます)。まさにすべて自分次第、すべて自己責任である。
 
 以下が募集要項である。確認のうえ、手伝いに来てもらえるならこれほどうれしいことはない。
 
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「東の田舎暮らし協力隊」募集要項

 
日時

 前月末に掲載する作業予定日の朝(各自来られる時間)

場所

 奈良県宇陀市大宇陀(くわしい場所は申込時につたえます)

条件
  • 体力があること
  • 現地集合現地解散できること
    ※公共交通機関使用の場合
    近鉄「榛原」駅で降り、大宇陀行き路線バスで「大宇陀高校」まで来てもらえれば迎えにいきます。帰りもバス停まで送ります。
申し込み方法

 以下のいずれかからお願いします。

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