耕さない農耕

 わたしが畠をするのは、農業の道を極めたいからではない。はたまた、自身の健康や食の安全を目がけているのでもない。まして商売のためでは全然ない。

 わたしは、生活をある程度自給したいと思っている。そしてその先で、人間の生身と風土の側から文化を建てかえすことに照準している。わたしが畠をするのは、とりもなおさず農耕という行為が、生活の、ひいては文化の基礎であるからに他ならない。

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 わたしは、農耕の仕様がそのまま、その文化の基本的な世界観を反映すると考えている。わけても耕すか耕さないかというところに、その集団の性質を透かし見ることができる、と。

 ふつう(日本では)土を耕すことは、農耕の最も基本的な行為だと思われている。だが実際には、耕さずとも作物はまずまずできるのである(もちろんその土が栽培に適していることが前提)。現にわたしは、畠を耕さずに種をまいて、様々の野菜を収穫している。

 たしかに、耕したほうが収量は上がるだろう。だが耕した土は、その後植えつけのたびに耕さねばならなくなる。なぜなら耕すことは、多くの生物——とりわけ野生植物の生きてきた舞台を破壊する行為であるからだ。耕して一時的に柔らかくなった土も、そこに多くの生物が息づいていなければ、じきに固く締まってゆく。

 つまり土を耕すとは、その土地を人間が占有することなのだ。人間にとって有用な植物の生産性を上げるために、多種多様の生物を斥け、彼らの暮らしてきた履歴を消し、純粋な土を取りだそうとする行為だと言ってよい。

 その意味で、自然とは自分たちが応じるものではなく、自分たちの都合で「作り変える」ものという世界観は、はるか昔土を耕すことを選択した時点の生活から現代文明まで、連続していると考えられる。このことは、cultureの語源が「耕す」である事実が裏付けている。われわれの文化は、まさに「土を耕す」ことなのである。

 だが、耕さない農耕を営む今のわたしは、「土を耕さない」という別様の文化の気配を、遠くない未来のほうから感じている。

 

 わたしの行う不耕起栽培は、川口由一さんの「自然農」を下敷きにしているのだが、彼はどこかで、「農耕の歴史の初期に、耕さずに種をまくだけという期間があったはずだ」というようなことを言っていた。まちがいないだろう。その期間は短かったかもしれないが、たしかにあったはずである。

 しかし、その「耕さない農耕」が続けられることはなかった。なぜなら、その時期の耕さない農耕は、あくまで「耕す農耕」に至る一段階でしかなかったであろうからだ。より安定的でより効率よくより多くの生産をめざす過程で、一時的に試みられた方法にすぎない。

 ということは、かつて過程でしかなく、しかもその目的によく適う方法ではなかった「耕さない農耕」を、現代のわたしは積極的に選びとってやっていることになる。そのことが示すのは、世界観の変容という事態だ。

 

 もっとも、耕しはしないものの、農耕(栽培)である以上、主な目的は作物の生産である。が、「より多くの生産」をめざしているのではない。さらには、その目的は目的としても、わたしの農耕はそれのみに収斂しない。

 そもそもわたしにとって畠とは、作物を生産する場所であると同時に、多くの生物の存在に触れるもっとも身近な場所である。だから、作物以外の多くの生物を排除してまで、より多くの作物を作ろうとは思わない。

 作物を栽培することは、それ自体大きな悦びであるが、多くの生物の存在を身辺に感じることもまた、それに勝るとも劣らない悦びである。さらにいえば、彼らと場所を同じくして自分の食料を作ることは、無上の悦びであって、しかも多大なる安息をもたらす。

 

 大地を〈耕す/耕さない〉は、文化の基底における〈する(人為を働かせる、統御する)/しない(人為を制限する、統御しない)〉の象徴的な一例であるが、「しない」ことは、そのイメージに反して実は積極的な意味を持つのではないか。

 われわれの文化は、もちろんわれわれを中心としているし、これからもそうありつづける。そのことに何も異論はない。ただわたしが気にかけるのは、その狭さである。

 われわれの文化の粋は、都市であろう。人間と人間とのあいだの関わり(フェロモン!)を発展純化したすえに都市はできた。が、同時に、人間とそれ以外の生物とのあいだの関わり(アレロケミカル!)は、都市が発達すればするほど、ますます等閑されてきた。このことは、われわれが「する」ことばかりをしてきた結果である。

 ここでわたしはその問題点をあげつらうつもりはない。その成果をわたしは十分に理解しているし、十分にその恩恵にあずかってもいる。しかしながら、われわれの豊かな文化が、他ならぬ「文化」であるためにのがしてきた、もうひとつの豊かな世界(自然!)のことを想わずにはいられないのだ。

 

 わたしはあくまで貪欲である。並び立つ二つの豊かさを前にして、どちらか一方だけを取る気はさらさらない。

 だから、こうして里山の残る地域に移住してきた。畠をしているが、土地を耕さない。すなわち、「しない」ことをしている。大地の上で、わたしが「しない」ことで、多くの生物たちが様々に「する」。その光景は見事と言う他ない。

 そして、耕さないといっても、農耕自体は「する」ことである。したがって、「耕さない農耕」とは、〈する/しない〉の中間にあることになる。その営みは、わたしを多くの他の生物たちと同じ場所に生かしてくれる。

 この地平に、ほんとうの意味において新たな文化の芽が萌すとわたしは信じているのである。

 

 ✳︎

 

 つまるところ、原理的に言って、「耕さない農耕」は新たな形態の文化を醸成するはずなのだ。

 それは、広々とし豊かなものであるに違いない。その獲得をめざしてわたしは日夜進んでいるのであり、そこまで到達できないことは目に見えているにしても、それを手にできたときのよろこびを少しでも算定すれば、自分の寿命のことなど気にしてはおれないのである。

 

参照

yaseikaifuku.hatenablog.com

 

十一月の作業予定

 ここ数ヶ月は大阪に行く用なども多かったし、なんとなくそういう気分でもなかったから、表立って手伝いを募ってはいなかった。それが今度は誰かとともに作業したい気分になってきたので、ふたたび「協力隊」を募集する。

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予想される作業内容

  • 落花生の収穫
  • 竹切り
  • 棚田の補修整備
  • 鶏舎の周りの柵づくり

 等々。合間にはヒヨコへの餌やりや青空弓道場で弓道体験などもしてもらえる。

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作業予定日

(赤い「あ」の日)

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その他詳細はこちら

yaseikaifuku.hatenablog.com

 

鶏舎建設まとめ

 先日、ようやく鶏小屋が完成した。

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 おもえば、三月末に建てはじめてから五ヶ月もかかった。といっても、梅の咲きのこる時分に柱だけ立てて、それから七月末までは完全に放置していた。すぐに農繁期に入り、構っていられなかったのである。柱を立てれば、忙しいなかでも建ててゆく気になるかと思ってやったのだが、気分も乗ってこなかった。

 それが、七月、田畠の仕事も落ちついてきて(正直、すこし飽きてもきて)、鶏小屋を建てるなら今だと一気に取りかかった。この機を逃せば、すぐまた冬野菜の種まき時期が来る。それまでに建ててしまおうと。

 だからつまり、実質は七月末からひと月で建てたことになる。何事においてもそうだが、わたしは気が乗りさえすれば、集中してその事に取組むことができる。裏を返せばそれは、着実に少しずつ積み上げるということができない、ということにもなるわけだが。

 ともあれ、鶏小屋はできた。もっとも、鶏を飼うまでには、内装(!)や柵の設置などすべき事はまだあるわけだが、一段落は一段落なので、これまでの建設作業をふりかえってみたい。

 *

 三月はじめ、友人と建設予定地にあった梅の木を掘り上げ、別の場所に移す。

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 三月末、友人が数人来てくれたので、間伐したヒノキのなかから手頃なものを選んできて、柱として立てる。ちなみに、鶏小屋を建てさせてもらっている場所は、わたしがいつもお世話になっている森下さんの敷地内。柱の丸太も、写真左上のヒノキ林からもらった。

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 以後、七月末までこの状態で放置。

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 五月には、知り合いから名古屋コーチンの雛が一羽届く。最初のほうこそ順調に見えたが、生まれつき脚が曲がっており、大きくなるにつれ自重を支えきれなくなって弱り、七月には死んでしまった。つまり、鶏小屋はできたものの、実はまだ肝心の鶏がいない。雛をくれた知り合いのところでもオスが高齢のために有精卵ができないらしく、十月まで待ってみてネット等で購入するつもりだ。

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 七月末、またも友人に手伝いにきてもらい、ようやく屋根に取りかかる。昨秋に切っておいた竹を山からおろし、半分に割って上下互い違いにし、波板状に設置する。この案は、いつぞやネットで見かけたバンブーハウスのものから拝借した。

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 屋根に取りかかったはいいものの、切っておいた分だけでは足りず、あらたに切ってくる羽目になる(秋冬以外に切った竹は傷みやすいが、仕方がない)。しかし、予想以上に本数が要ることと、切ったばかりの青竹は重く、大量に運んでくるのが自分一人では大変なこととで、半分ほどまでは一人でして、あとの分は誰かに手伝ってもらって切ってくることにする(ここらへんで件の棚田全段流し素麺を思いつく)。

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 八月あたま、一人でできるところをしていこうと、南側の壁を張る。南側は窓を作らないので、単純に板の長さを合わせて張ってゆくだけ。ちなみに壁板は、バイト先(材木屋)からもらったスギ板(バイト先が材木屋でよかった)。

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 ここまでくれば調子も出てくる。日をおかず、東側に取りかかる。東側は一番目立つし、窓や出入り口を作るので、いろいろと思案しながらの作業になる。壁は鎧張りにし、見場を良くした。

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 そのままの勢いで、東側の壁、窓、扉を作る。扉は、これまた森下さんの納屋に眠っていた昔の建具をもらい、流用している。ここまでやって、扉の上のスペースに看板があればいいと思い、字の上手な森下さんにお願いしてみる。

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 看板を頼んだ翌日、とんでもない代物が森下さんから返ってくる。ただのヒノキの白い板をお渡ししたところ、まずバーナーで表面を焼き、サンダーで磨いてから、字をしたためてくださって、ものすごい仕上がりのものになっていた。

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 その後、看板に圧倒されて作業はやや失速するも、盆の頃には壁が全面完成する。もうこの段階にくると、だいぶ作業にも慣れて、同時にすこし飽きてくる。

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 八月十五日、いよいよ棚田全段流し素麺の日。目論見どおり、大量の竹を皆で切ってくることができた。鶏小屋の屋根に流用するにはいささか多すぎたのではあるが。

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 流し素麺で使った竹で屋根を全部葺く。その上に太い鉄の棒(これも森下邸にあったもの)を渡して強風で飛ばないようにする。

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 最後に、鶏小屋には最も不要な(もったいない)部分であるところの、廂を作る。ヒノキの角材で骨を組んで竹を葺く。正直にいって、この工程に一番時間をかけたし、苦労した。

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 ✳︎

 かくて鶏小屋は完成した。

f:id:shhazm:20160903193215j:image(正面からはあまり見ないほうがいい)

 間近でつぶさに見てゆけば粗い部分も多いのだが、「鶏小屋にしては」十分すぎる出来だと自負している。

 こういう本格的な小屋を建てるのは初めてだったものの、やってみれば案外できるものである。要は柱を立てて屋根と壁を取付ければできるのだ。生きるか死ぬかの局面に臨んだ際、人は先入観に反して恐怖をおぼえない(サン・テグジュペリが書いていた)ように、何事も一度その渦中に入ってしまえば、人はそれなりに対処できるものなのだという思いを強くした。

 もちろん、今回の場合、森下さんという心強い助言者や、書籍やネットという参考図書の存在にも助けられた部分はある。しかし、わたしはなるべくそうしたものに頼らまいとしていたし、そうしたものを半ば遠ざけてもいた。それは、自分のこれまでの人生において培ってきた、身体の動かし方やこの世界への接し方に関する蓄積を総動員することで、大方のことはできると信じていたからであり、またそれを確かめたかったからである。

 今回、助言や情報にあまり頼らなかったこと、鶏小屋には不必要と思える箇所にまで手をかけたことには、別の理由もある。かねてからわたしは、自分で小屋を建てて住みたいと思ってきた。そう遠くない将来に実行するつもりでいるのだが、たまたま鶏小屋を建てる機会が先にめぐってきたので、来たるべきその時のための練習を兼ねてやろうと思ったのだ。

 ✳︎

 結果として、思っていたよりも良いものができたことで、わたしは自信(自惚れともいう!)を深めた。一歩前進したという実感を得られたことは、生きてゆくうえでの活力になる。確かな一歩を踏むことでしか、次の一歩を踏み出すことはできないから。

 さしあたって(死ぬまで)重要なことは、一歩また一歩と前進することであると信じる。われわれがどこにも行けないのだとしても。

 

もってこいの日

 今朝、外に出てみると、昨夜の大雨が嘘のように、空は青く、空気はいやに乾いて澄んでいる。颱風10号が、この辺一帯のあらゆる湿性のものを連れ去ったらしい。地上の一切のものは洗われて、清潔にきらめいていた。

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 気温も低い。まるで秋だ。夏も颱風に引っぱられたと見える。夏のいぬ間に、舞台袖に控えていた秋が、ここぞとばかりに踊り出た、といったところか。実際、天下のものはみな、夏のぎらつきをひそめ、あの秋のさびしさを帯びていた。

 風もある。颱風は去ったとはいえ、いまだその影響下にあるのだろうか。しかし湿った風ではない。鋭く、乾いて、吹きつける。だから余計に、みんなさびしくなる。

 このさびしさはなんだろう。ふと、これはみんながもともと宿しているさびしさではないのか、という気がする。あらゆる存在が、他ならぬ存在することによって持ってしまうさびしさ。そのさびしさが、きょうは剥きだしになって充満している。みんながみんな、さびしさにおいて同期している。

 しかしこのさびしさは、暗く湿ったものではない。やはり明るく乾いたものだ。みんな、あっけらかんとしてそれぞれに在るのだ。さびしいのにかわりはないのだけれども。

 *

 不意に、「…のにもってこいの日」という一語が、強風と一緒に来てぼくをかすめる。どこかで耳にしたか、目にした響きだ。それがなんなのか、思い出せそうで思い出せない。思わずネット検索をかけた。一番上に出てきたのがそれだった。ネイティヴ・アメリカンの言葉を載せた本。

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 以前この本のことをどこで見たかは忘れた。読んだこともない。でもこの題名はなつかしい。おそらくは、題名だけでぼくはこの本を読んでいた。

 ふたたび風がぬけてゆく。まさしくきょうは、死ぬのにもってこいの日だ。それも、遺体を残してしまう死ではなく、風に乗って、透明に飛び散り渡る死。死と呼ぶべきでさえないかもしれない、軽快で開放的な死。

 その気になれば、意を決しさえすれば、次の風にでも乗れそうだった。いやむしろ、ここにこうして輪郭をもって立っているという特異な状態のほうを解除するだけで事は足りる。あとは風が、ぼくというものをぼくでないものにすっかり還元してくれるはずだった。

 *

 まったくきょうという日には、何か特別なものがあった。こういう日はたまにある。こういう、もってこいの日。

 きょう、結局ぼくは行かなかった。行けなかった、というのが正確だろう。今はその時ではない。さびしさを焚いて為すべきことが、まだ山ほどある気がするから。

 

今日は死ぬのにもってこいの日

今日は死ぬのにもってこいの日

 

 

夏の夜の対流圏

 大宇陀の夏の夜はすばらしい。おそらくは標高や地形の加減で、昼と夜の気温差が著しいこの土地では、夏の盛りであっても夜になれば涼しくなる。

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 ここでは熱帯夜になる夜はほとんどない。それゆえ夜間はクーラーなどいらない(事実、わが家をふくめクーラーを設置していない家は多い)。窓を開ければ、涼風が入ってきて気持ちがいい。

(疑い深い向きのために天気予報のスクリーンショットを載せておく。f:id:shhazm:20160824211944p:image

 もっとも、日が暮れてからしばらくは、昼間の熱を溜めこんだ家の中は少々暑いこともある。が、そんな夜でも、外に出てみればもう気温は心地よいところまで下がっている。

 だから僕はよく、酒とタバコを持って家の前に座り、ぼんやりと空をながめたりしている。大宇陀は星がきれいに見えるのだ。それに最近では、コオロギのとおぼしき涼しげな虫の音も聞こえる。

 ✳︎

 流星が流れないかと夜空を見上げる。いっこうに流れない。注意して見ている時には流れないらしい。首が痛くなってくる。かわりに飛行機が点滅しながら飛んでゆく。

 すこし雲が出てくる。星がいくつか隠れたが、依然としていい夜だ。こんな夜には、なにか気の利いた出来事が起こってもよさそうなのに、と思う。何の気なしに吸っていたタバコを、一息味わいながら吸いこむ。ゆっくりと空気中に煙を吐きだす。すぐに見えなくなる煙になんとなく嫉妬しながら、ストレートのウイスキーを一口飲む。

 ふたたび空を見上げ、半ばそうしなければならないかのように、将来のことを考えてみる。特に代わり映えのしないいつも通りの漠然とした希望と不安とが、いやらしくまとわりつく。こんなにすばらしい夜には不釣り合いだから、それ以上考えるのはやめた。

 草履を履いている裸足が蚊にくわれる。こんな夜に、こんなチンケな痒みに気をとられることが情けないが、それが僕にとって目下最大の問題となる。痒い。将来とか、明日のことさえどうでもいい。

 やや遠くで雷光が走る。期待とは裏腹に、いつまでたっても音は聞こえない。頭上には薄い雲があるだけだ。足はまだ痒い。意識をなんとか空に向けつづけ、雲の動きを見つめる。あしたは晴れるだろうかと考えたりして。

 どうやら今夜はもう、特別なことは外部にも自分の内部にも起こらないようだ。残ったウイスキーを呷って、立ち上がる。家の中に入る直前、もう一度さっと振り仰いだが、やっぱり流れ星は流れなかった。

棚田全段流し素麺ふりかえり

 八月十五日、棚田を全段使って流し素麺をした。

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 全長は100メートルほどだろうか。大量の竹を切ってきて、炎天下、皆で割り、節を抜き、継いで、棚田に渡すまでの作業はなかなかの重労働だった。

 はじめての試みだったこともあり、当初の想定より時間がかかったが、竹を棚田の上から下まで渡せた時には、えもいわれぬ達成感があった。 

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 「棚田の上から下まで全部使って流し素麺したらおもろいんちゃうん」と思いついてしまったのが事の発端である。そこには、目下建設中の鶏小屋に竹が多く要るために、流し素麺をするという体で他人の手を借り必要分をみつくろいたいという、打算的な目論見もあったことをここに白状しておく。

 人が集まれば楽しいだろうと思ったし、竹を切ってくるのに人手がほしかった。何人か友達が来てくれればな、という軽い気持ちからフェイスブックに告知したら、ある方が知り合いに声をかけてくださって、当日蓋をあけてみれば、ぞろぞろと何組もの子連れの家族がやってきた。

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 こうなると、やるしかない。正直にいうと、当初は、仲間内でやって、たぶんしんどいから、妥協してせいぜい棚田の半分くらいでそこそこのものをやることになるだろうと高を括っていた(竹は鶏小屋に使う分はそれで十分まかなえたし)。だが、総勢20名も集まってしまってはキチッとやらないといけない気になる。あまつさえ子供らの手前、半端なことはできない。数人来ていた友人たちもおそらく同様の気持ちだっただろう。

 そんなこんなで、本気を出さねばならなくなった。もう必死である。段取りを前倒しして、前日と当日の朝、大量の竹を友人たちと切って車に満載して運んだ。家族連れが到着してからは、なにがなんでも全段に竹を渡そうと、作業の分担と進行に頭を悩ませながら、ひたすら手を動かした。

 そうして、なんとかできた。

 途中、「こんなんほんまにできるんかい」とか「こんな大変なこと言い出さんかったらよかった」という思いもよぎったものの、こうして友人の撮ってくれた写真に映った皆の楽しげな顔を見れば、やってよかったと思う。子供らには大人の本気を見せることができたと思うし、何より自分たちが楽しかった。

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 ちなみに翌日は、疲労感にみまわれて、ほとんど何もできなかった。朝早く片づけだけしに行って、帰ってまた昼まで泥のように眠った。身体の倦怠が、精神の満足を裏打ちするようだった。本当に、よくやったものだと一日たってあらためて感じた。

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 ところで、棚田では、春に火の玉サッカーや走り高跳びもした。こうした遊びの範疇に入ることも、大人になってからしようとすれば、その規模や程度が背丈同様大きくなるが、それをも容れてなお余りある野山である。

 特に棚田は、見目はきれいだし、平面もあれば段差もある。栽培という第一の目的を充しながらも、人間と自然が交感しうるその他の余白を多く持つ、おもしろい里山空間である。

 わたしは今後も、この棚田でいろいろと悪だくみをしていきたいと思っている。

 

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日記 八月二日(平成廿八年)

晴れ時々曇り、夕方に驟雨。

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寝坊。8時から畠に出て野菜の世話など。10時、森下さんを診療所に迎えにいったのち、水利組合の集金(今年は森下さんが担当)の運転手。そのまま昼食をご馳走になり、森下さんをお家に送り届けたのち、木陰で昼寝、読書。

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15時、田んぼの取水量の調整や、その水の流れる沢の掃除など。その後、森下さんの息子さんが帰ってこられ、盆前の墓掃除に行くというので車を出して同行(この時期は一人で行かないほうがいいらしい。お呼びがかかるとか)。17時、鶏小屋の建設作業。日没少し前に激しい夕立、帰宅。

f:id:shhazm:20160802214552j:image(南側の壁が完成)

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 昼、木陰に寝転がって目をつぶり、眠りに落ちるまでのあいだ、視覚の邪魔がなくなることで聴覚が主な感覚器官となる。真っ先に蝉の声が耳を占める。ついで沢のせせらぎ、少し遠くに呼びかわす鳥の声、さらに遠くに車の音や刈払い機のエンジン音が聞こえだす。草の中の虫の声や、あたりを飛ぶ虫の羽音も聞こえる。これらは、起きているときには聞き流している音どもだ。しばらくひとつひとつの音を辿ったのち、それらの和音を聴いた。ほかに聴き漏らしている音がないかと耳を澄ましてさがしているうちに、いつの間にか寝ていた。